ヤジ馬の日本史

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災難編23/二人旅の宮宿とそれから

住兵衛

拙宅からトボトボ歩いて15分ほどの場所に「七里の渡し」(宮の渡し)跡があります。
さて「七里の渡し」とは、その昔の街道である東海道五十三次の第41番目の、
ここ「宮宿」から次の第42番目「桑名宿」までの概ね七里(28km)の距離を船で渡る、
東海道唯一の海路を指しており、その出発地」、あるいは逆コースなら「到着地」
なる場所です。


もっとも、そうした昔ながら「渡し船」はとっくに姿を消して、現在この周辺は
整備されて「宮の渡し公園」と呼ばれる佇まいを見せています。
ただ、現在では「七里の渡し」だけが有名になっている感がありますが、実は
この地は「十里の渡し」の出発地でもありました。


なにぃ「十里の渡し」だとぅ?・・・聞いたことがないなあ。
そんな方のために少しだけ触れておくとこうなります。
ここを「宮宿」から船出するや、「七里の渡し」では最終目的地となっている
「桑名宿」すっかりシカトする形で、そのもう一つ先の「四日市宿」までの
十里を渡航するコースでした。
現代で言うなら、「特急旅客船」ほどの感覚になるのかもしれません。
時間を急ぐビジネスマンたちには有難い便だったようです。


ついでに触れておくと、この宮宿から徒歩で北へ向かうと、ほどなく「佐屋街道」
出ましたが、この佐屋街道をさらに西へ西へと進んでいくと、やがて木曽川にぶつかり、
その地点にも桑名宿までの渡し舟(川船)が用意されていました。
こちらは、その渡航距離から「三里の渡し」と呼ばれました。


佐屋街道の途中には「津島神社」という人気スポットもあったことや、また
「船酔い」に弱い人とか、あるいは「長時間乗船」を避けたい女性たちには、
こちらの「三里の渡し」もそれなりに人気があったようです。


ただ、大名たちの参勤交代においては、どうやら「七里の渡し」経由を
「正式なコース」とする意識があったものか、歴史的には「七里の渡し」の名が
勝ち残る形になりました。


   宮の渡し公園(七里の渡し跡)


という展開から、唐突にお話が飛びますが、実はある時、筆者の散歩途中の
「七里の渡し」跡で、見るからにヒマ人風体のオジサンから突然のこと、こんな
疑問を投げかけられたのです。
~弥次さん喜多さんは、「三里/七里/十里」のうちの、どの「渡し」を利用したの
 だろうね?~
 なかなかに博識な方のようです。


この見るからにヒマ人風体のオジサンが言う「弥次さん喜多さん」とは、十返舎一九
滑稽本「東海道中膝栗毛」(1802-1814年)の主人公である弥次郎兵衛と喜多八のこと
を言っているのはモチのロンです。
でも、ハナから「七里の渡し」だと思い込んでいた筆者はちょっと返事に焦ります。


~えぇッ、そういう言い方をするってことは、ホントは「七里の渡し」ではなかった
 ということなのかしらん?~
ところが、ヒマ人風体のオジサンも「膝栗毛」のストーリーを深く承知しれいるわけ
でもなさそうで、ただひょっこり思い付いただけの問い掛けだったようです。


その弥次さん喜多さんが、江戸出発後十日目あたりで「宮宿」へ到着したことは、
うすらボンヤリながらも記憶していたものの、その後の行動についてはとんと
知りません。
筆者には何らの影響もないことなのですが、しかし、尋ねられてみると妙に気になる
ものです。


折角の機会ですから、知ってみたいとは思うものの、ところが筆者は筋金入りの
怠け者・・・ですから「膝栗毛」を読もうとするほどの気迫は持ち合わせていません。
そこで思いついたのが「AI」に尋ねてみることでした。


旅の先々でいろいろな騒動に巻き込まれるというパターンだけは承知していたので、
こんな風な質問をしてみたのです。
~十返舎一九作『東海道中膝栗毛』において、主人公である弥次さん喜多さんは、
 熱田「宮宿」においてどんな騒動・出来事に遭遇したのでしょうか? 
 そしてまた、それにどのように対処したのでしょうか?~


すると、例によってすぐさまの回答です。
~十返舎一九の『東海道中膝栗毛』において、弥次さんと喜多さんは
 東海道五十三次を旅する中で、各宿場町でさまざまな騒動や出来事に巻き込まれます。
 宮宿(現在の愛知県名古屋市熱田区)においても、彼らは一騒動を経験します~


ええ、そこまでは筆者も分かっていますから、知りたいのはその先なのです。
その点、「AI」は抜かりありません。
~宮宿での出来事/宮宿では、弥次さんと喜多さんが宿に泊まる際に、偶然、
 盗賊騒ぎに巻き込まれてしまいます~


おお、この「宮宿」では盗賊騒ぎだってか?
~宿の中で大金を持っていた旅人がいて、その金を狙った泥棒が忍び込むという
 事件が起こります。
 しかし、間の悪いことに、弥次さんと喜多さんが泥棒と勘違いされてしまい、
 大騒ぎとなります~


これは大変だがや・・・「濡れ衣」ということなら一刻も早く晴らさなくっちゃ。
そこのところは、こんな説明に。
~対処と結末/最初は二人が犯人扱いされてしまい、宿の人々から疑いの目を
 向けられます。 しかし、最終的には本当の泥棒が捕まり、二人の疑いは晴れます。
 この騒動のドタバタぶりは、『東海道中膝栗毛』特有のユーモラスな筆致で描かれて

 おり、弥次喜多コンビの間抜けさや、旅の珍道中的な雰囲気が強調されています~


ああ、よかった。 ただ「AI」は念を入れたおさらいをしてきます。
~まとめ/宮宿では、弥次さんと喜多さんは盗賊騒ぎに巻き込まれ、一時は泥棒と
 疑われるものの、最終的には真犯人が捕まり、騒動は収束します。
 このようなエピソードは、『東海道中膝栗毛』の魅力であるユーモアや、旅の中での
 意外な展開を楽しませる要素の一つとなっています~


   

     喜多八&弥次郎兵衛 / 十返舎一九


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『東海道中膝栗毛』の魅力はともかく、では「三里/七里/十里」のどの渡しを
利用したかについては、迂闊も迂闊、質問することをすっかり忘れていました。


ところがドッコイ、Wikipediaにはその「旅行の日程」がバッチリ紹介されていたのです。
それによると、江戸を出発してから、
~10日目/赤坂宿(愛知県豊川市)より宮宿(愛知県名古屋市)。
 11日目/宮より桑名(三重県)の渡しを経て四日市宿(三重県)~


宮宿から桑名宿まで「渡し船」に乗った・・・つまり「七里の渡し」を利用したと
されていたのです。
しかし、弥次さん喜多さんが辿った「旅程」は、ホントにこんなだったのかしらん?
一抹の不審が残ります。


なぜなら、道路地図を眺めてみると、東海道五十三次の以下の五つの宿場町を、
なんと「一日で踏破」していることになるからです。
〇36番目の「赤坂宿」(愛知県豊川市)、〇37番目「藤川宿」(愛知県岡崎市)、
〇38番目「岡崎宿」(愛知県岡崎市、〇39番目の「 池鯉鮒宿」(愛知県知立市)、
〇40番目の「鳴海宿」(名古屋市緑区)


ちょいと調べてみると、38番目「赤坂宿」から41番目「宮宿」まで、その距離
ざっと50km。
この距離をわずか一日でしっかり歩き切ったなんて、ちょいとすごいと思いませんか。
歩く標準速度を現代人並みに「時速4km」と仮定したなら、休憩なしとした
単純計算でも、なんと12.5時間も要してしまうのですからねぇ。


では、弥次さん喜多さんは人並み外れた健脚だったかというと、これがそうでもない
ようなのです。 なぜなら、
~(当時は)東海道五十三次の道程(約490km)を大体14日前後で歩いた~
という案内に遭遇したからです。


そこで計算してみると、490km/14日=35km/日となります。
つまり、なんてことはない、昔の旅人なら、日に35 km程度はごくごく普通に
歩いていたことになるわけです。
だったら、弥次さん喜多さんの1日50kmも「あり得ない距離」ではないなぁ。
そんな風に納得した次第です。


ちなみに、その滑稽本『東海道中膝栗毛』のタイトルにも使われている
「膝栗毛」の意味についてはこんな説明に。
~「栗毛」は栗色の馬。
 「膝栗毛」とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である~


なあるほど、~栗色の毛が生えた膝~ということではなかったのだ。
このことを知っただけでも、あのヒマ人風体のオジサンから唐突な問い掛けを
受けたことは無駄ではなかったと思えた次第です。


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