ヤジ馬の日本史

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例外編19/将軍正室の異例な弔い

住兵衛

徳川幕府歴代15人の将軍には、正室の他にもそれなりの人数の側室がいました。
その歴代分の全部を合算すると一体何人になるのかは知りませんが、その中に
たった一人だけ、極めて異例で「例外」的な扱いを受けた女性がいます。


二代将軍・秀忠(1579-1632年)の正室・おサン(1573-1626年)がその方です。
とは言うものの、お江さんの人となりについては忘れちゃっていることがあるやも
しれませんので、ちょっとおさらい。


~(お江サンこと)崇源院(すうげんいん/そうげんいん/1573-1626年)は、
 安土桃山時代から江戸時代初期の女性。
 近江の戦国大名・浅井長政(1545-1573年)の三女で、母は織田信長の妹
 
お市の方(1547-1583年)~
つまり、織田信長の姪に当たる、いわゆる「浅井三姉妹」の末っ子ということになります。


そして、
~初め佐治一成(織田家家臣/母は信長の妹・犬/1569?-1634年)と
 婚約したが、秀吉により離縁させられて、その甥で養子の豊臣秀勝と再婚し、
 娘をもうけたが、秀勝が急逝~


そうした波乱を経た末に。
~江戸幕府の2代将軍となる徳川秀忠(1579-1632年)と3度目の結婚をして、
 3代将軍家光(1604-1651年)を含む2男5女をもうけた~


時代が時代ですから、それなりの紆余曲折はあったものの、最終的には将軍の正室と
いう高い地位に収まったことになります。
ただ、そのお江サン自身は結構に激しい気性を備えた女性だったようで、てんで頭が
上がらなかった年下夫の秀忠なぞは、とことんの「恐妻家」だったと後世に伝わって
いるくらいです。


   崇源院(江)


そのお江サンについて、Wikipediaにこんな記事があります。
~戦後(1958-1960年)になって行われた増上寺の徳川家墓所発掘調査の際に、
 崇源院の墓も発掘され、その遺骨も調査された~

徳川家の一員なのですから当然でしょう。


ところが、
~その調査報告によると、生前のお江サンは小柄で華奢な女性であったようである~
ちなみに、父・浅井長政も、母・お市の方も。また長姉・茶々らは長身であったと
推察されるようです。


それはいいとして、注目したいのはこんな記述です。
~崇源院は火葬にされており~
さらには、これに追い打ちをかけた説明もあるのです。


~増上寺に葬られた将軍一門で荼毘に付されていたのは崇源院だけであった~
要するに、土葬がスタンダードだった当時の常識からすれば、飛びっ切りに
「異例な処置」が行われたということになります。


では、なんでそんな運びに?・・・当然の疑問です。
なぜなら、江戸幕府将軍の正室・側室の中で「火葬」になったのは、後にも先にも
このお江サンたった一人だけ、と言い切っているのですから、何かしら
「キナ臭い」印象がしてしまうからです。


ただし、誤解があるといけないので前もってお断わりしておきますが、当然ながら、
死後に火葬に付したしたということですよ。
昨今は「生前葬儀」というスタイルが流行っているようですが、「生前火葬」という
ことでは、さすがに問題アリですからねぇ。


そこで、こんな見方も出てくるわけです。
~このお江サンのホントの死因は「毒殺」であって、「証拠隠滅」のために
「火葬」にしたのではないのか~

でもそういうことなら、なぜお江サンは「毒殺」されなければならなかったのか?
逆に、こんな疑問も湧いてくることにもなります。


そこで、俄然クローズ・アップされるのが、生前のお江サンVS春日局の確執です。
お江サンと、家光の乳母・春日局の間には、こんな按配に、確かに大きな確執が
ありました。
秀忠・お江夫妻は、兄・家光より弟の忠長を可愛がりました。
夫妻は家光が備えた、当時としては歓迎されない「性癖」を気にしていたようです。


ところがそれ以上に、兄・家光を可愛がったのが家光乳母の春日局だったのです。
そればかりではありません。 
メッチャ肩入れもしているのです。



さてはて、その肩入れたるやハンパではなく、秀忠夫妻が構想していた
「三代将軍・忠長」プランがオジャンになってしまったのも、「三代・家光」案を
彼女が家康に直訴したからだといわれているくらいのものでした。


そういうことなら、秀忠・お江夫妻が随分とムセッとしたのも当然です。
そこで、秀忠・お江夫妻側の「仕返し」を恐れた春日局の側が、先手を打って
「お江さん始末」(毒殺)に出た、という「わかりやすい」見方も確かにないでは
ないようです。


「毒殺」ということなら、遺体にはその「証拠」が残っているかもしれません。
そこで、その「証拠隠滅」のために、というか、内部スキャンダルが世間へ
漏れることを恐れた幕府が、当時の常識であった「土葬」でななく、「火葬」という
「特殊」な葬儀方法に踏み切った。
確かに分かりやすい見方ではあります。


しかし、念のために少し整理してみると、時系列的にはこうなっているのです
お江さんが亡くなった1626年は、将軍は三代・家光(23歳/将軍職4年目)であり、
前将軍である夫君・秀忠(48歳)は大御所の立場にいました。


そうなると、この時点の春日局(当時48歳/1579-1643年)に、お江サンを
「毒殺」しなければならない積極的な理由があったかといえば、これは少し疑問に
なってきます。


なぜなら、「後継将軍」問題は既にとっくの昔に決着がついており、しかもそれは
春日局の完全勝利に終わっているからです。
ということなら、いまさらお江サンを消さねばならない理由も必要もなかったように
思えるのです。


   

 第3代将軍・徳川家光 / 春日局(乳母)


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ではもう百歩譲って、仮に非常に手際よく「毒殺」を実行できたとしてみます。
でも、はたして犯人?春日局に、その後の「葬儀の次第」を取り仕切るだけの権限が
あったものか、という点には少なからずの疑問が残ります。


その点についても、またまたさらに百歩(合計で二百歩)譲って、春日局が何らかの
手段を駆使することで、贔屓の将軍・家光への遠隔操縦?ができたとしても、
なにしろ、被害者?の夫君・秀忠がピンピン生きているのですから、そこまで
思い通りにことが運べたとも思えません。


すると、「火葬」の原因を他に求めることになります。
ここから先は筆者の直感と屁理屈が並びますので、短気系の方はひとつ深呼吸をして
気持ちを落ち着かせてくださいネ。


通常では行わない「火葬」をわざわざ行ったということは、多くの人がお江サンの
「亡くなり方」に尋常でない印象を持ったことが想像されます。
~空前の激しい吐瀉・下痢・腹痛・発熱に苦しんだ挙句に絶命した~
このくらいの症状を見せたのかもしれません・・・きっとなら。


これを見て、周囲の者が真っ先に直感したのは、いわゆる「新型の伝染病」だった
のではないでしょうか?
たぶん、同様の症状を見せた人が、そうした人たちの周りにもいたと思われます。


そうすると、真っ先に頭に浮かぶことは、
~ともかく、VIPが集まる場所・江戸城内で「新型の伝染病」が流行るなんてことは
 まさしく天下の一大事。
 下手をすれば「政権」の根幹を揺るがしかねないゾ~


そこで、一にも二にもその拡大を防ぐ対策に迫られ、否応なく「火葬」を選択する
しか道はなかったという解釈です。
では、なぜその時の状況が詳しく伝わっていないのか?
そりゃあ、なんといっても現職将軍の実母のことですから、現代とは違って
そうそうリアルでアケスケな描写もできませんでしょうから、そこは少し筆を曲げて
おくのがオトナの態度というものでしょう。


では具体的に、それはどんな「伝染病」?だったのか?
大胆不敵に推理すれば、それは「ノロウィルス」だった!
「んなバカな! 
 ノロウィルスが確認されたのは二十世紀もいい加減後半になってからだぞ!」
こう指摘する方にはひとつの思い込みがあります。


「ノロウィルス」は二十世紀に出現したのではなく、ただ、その時に始めて人間側が
その存在を追確認したということに過ぎないのです。
お江サンの時代よりずっと後の二十世紀になって、一躍その知名度を上げたことは
確かですが、「ノロウィルス」のプロトタイプは、それこその時代より、
ずっとずっとその昔から存在し、そしてまた、ずっとずっとその昔から長い長い
下積み活動を続けていたということです。


そしてそもそも、その「ノロウィルス」の命名自体が、長い時間を掛けて
「ノロノロ」と進化を続けるというところからきている?とするなら、
この推理・論理は間違っていないことになるハズなのです。
でもただ、ひょっとしたら、どこかにまだ誤解や落ち度が残っているような気が
しないでもないのですが・・・


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