ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

お国自慢編19/地元都市古墳のひょんな魅力

筆者が常の生息地としている「名古屋市熱田区」の地で有名な場所と言えば
「熱田神宮」を挙げる人も少なくありません。


なにせ、この国の始まりの始まりである「天孫降臨」の際にアマテラス(天照大神)が
孫のニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)に授けた三種類の宝物、いわゆる「三種の神器」
一つである「草薙剣」(天叢雲剣)を祀っていること。
さらには、十年ほど前の2013(平成25)年には「創祀千九百年大祭」が行われた
ほどに大変に由緒ある神社でもあるからです。


ちなみに、その「三種の神器」とは、
~日本の歴代天皇が古代よりレガリアとして伝世してきた三種類の宝物~
と説明されています。
でも、その「レガリア」って、いったい何のこと?
~王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王、君主であると認めさせる
 象徴となる物品~
 こう説明されています。


そうした外国語があるからには「王権を象徴する物品」なるものは、なにも日本の
「三種の神器」に限ったものではなく、まあ世界に共通したものだということなのかも
しれません。
ですから、熱田神宮は天皇の権威を象徴するとされる、その「レガリア」宝物の
ひとつが所蔵され続けている大変に格式の高い神社ということになります。


さて、その熱田神宮から北方向へ数百メートル進んだところに広がっているのが、
熱田神宮公園であり、そのまた敷地の一角を占めているのが「断夫山古墳」
(だんぷざんこふん)
です。


その周辺はこんな状況を呈しています。
南へ数百メートルの位置に熱田神宮があるのは先の説明の通りですが、その東側は
北上すると名古屋城へ出る国道19号線に接し、さらに西側はその名古屋城建設の際の
資材運搬を目的として設けられた運河「堀川」に面しています。


片側5車線という堂々たる幅を備えた国道に直に面しているのですから、
この断夫山古墳を「街中(まちなか)古墳」とか、あるいは「都市古墳」とか、もう
ちょっと愛嬌のある別名で呼んだりしても、さほどの違和感はないような気がします。
というわけで、今回はその都市古墳=断夫山古墳を取り上げることにしました。
 

   断夫山古墳と熱田神宮


学術的にはこんな説明になっています。
~熱田台地南西縁の標高約10メートルの地に築造された大型前方後円墳である~
現在では干拓による土地が広がって海が遠くなってしまいましたが、古墳が築造された
頃は、数百メートル南の熱田神宮のそのすぐ目の前に海(伊勢湾)が広がっていました。


そんなエリアの「大型古墳」については以下のデータが示されています。
         〇墳丘長:151メートル(推定復元160メートル程度か)
〇後円部(3段築成)直径:80メートル/高さ:13メートル
〇前方部(3段築成) 幅:116メートル/高さ:16メートル
  〇造出  西側くびれ部:約25メートル×17メートル
     (古墳に直接取り付く、半円形もしくは方形の壇状の施設)


そして、そのデカさはさらに強調されます。
~古墳の築造時期は、5世紀末から6世紀前葉と推定され、現存する同時期の古墳の中では
 東日本最大級で、近畿地方の大王墓に次ぐ規模を誇る~


なにしろ「東日本最大級」ということですから、
~1987(昭和62)年7月9日に国の史跡に指定された~
このことも、むしろ当然かもしれません。


では、肝心の被葬者はどこのどなたなの?
実は定説とされるものがなく、幾つかの見解に分かれています。
歴代天皇の御陵とされる古墳でさえ確実だと言えるのは、実際には
指折り数える程度だとされているのですから、これは無理もないことかもしれません。


で、この「断夫山古墳」の被葬者については、次のような説が考えられている
とのことです。
〇尾張南部に勢力を広げた尾張氏の首長・尾張連草香(おわりのむらじくさか)
〇その尾張連草香の娘で、継体天皇の妃となった目子媛(めこひめ)
〇日本武尊(やまとたける)の妃の宮簀媛命(みやずひめのみこと)


一番目の説はあまりにも常識的でベタな見解で何の面白味もありません。
しかし二番目の学術的な見解、そして三番目の伝承的な見解について注目すべきは、
そのどちらもが「被葬者は女性」としている点です。


ジェンダー平等意識がメッチャ強くなった現代に、「妃」と聞いて即「女性」だと
決めてかかることにはそれなりのリスクがある行為なのかもしれませんが、昔の
そのまた昔のお話なのですから、まあ「女性」だと受け止めてもさほどの問題が出る
ようには思えません。


で、まずは二番目の「目子媛」説に目をやると、なんと「継体天皇の妃」とされています。 
で、その第26代・継体天皇(450?-531年?)ご自身に目をやると、こんな案内に
なっています。


 

        断夫山古墳 / 宮簀媛


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~越前国または近江国を治めていた人物で、第15代・応神天皇「5世の来孫」であり、
 本来は皇位を継ぐ立場ではなかったが、「四従兄弟」にあたる第25代・武烈天皇が
 後嗣を残さずして崩御したため、周辺有力者らの推戴を受けて即位した~


ちなみに、ここの説明に登場している「5世の来孫」とは、本人から見て
「孫のそのまた曽孫」のことになり、また「四従兄弟」とは、親同士が「再従兄弟姉妹」
(はとこ)の関係の、さらにもうひとつ世代を下った血縁ということですから、
早い話が、両方とも遠回しに「赤の他人」だと言っているようなものです。


こんなお話も伝わっています。
~継体天皇は都入りに19年の歳月を擁した~
要するに、出身地(越前国または近江国)から都へ入るまでに反対勢力の妨害を
各地で繰り返し受けたということなのでしょう。
そして、この異色の天皇の后がこの「断夫山古墳」の被葬者だと見られているわけ
ですから、ちょっとばかりひょんな魅力を感じるお話です。


しかし、三番目の見方、~(被葬者は)日本武尊の妃の宮簀媛命~ともなると、
その色合いはさらに濃さを増すのです。
なぜなら、日本武尊と宮簀媛のご夫妻は熱田神宮に祀られている「草薙の剣」
(三種の神器)とは切っても切れない関係にあるからです。


こんなお話になっています。
~東征の後、日本武尊は尾張国で結婚した宮簀媛の元に(草薙の)剣を預けたまま、
 伊吹山の悪神(荒神)を討伐しに出掛けた~

「預けたまま」とは少し恰好を付けた言い方で、本当は「うっかり忘れ物」をしたのか、
あるいは「相手を舐めていた」ということなのかもしれません。


ともかく、目的の伊吹山に到着すると、
~剣を持たずに素手で伊吹の神と対決しに行った日本武尊の前に、牛ほどの大きさの
 白い大猪が現れた。 
 武尊命は「この白い猪は神の使者だろう。 今は殺さず、帰るときに殺せばよかろう」
 と言挙げをしこれを無視するが、本当はその猪こそが神そのものの正体であった~


蛇足ですが、こんな注記を見つけましたのでご紹介しておきます。
~この場面が「言挙げ」という言葉の用例の、現存最古のものとされる~


お話を物語に戻します。
~神の逆襲を喰らった武尊は病の身となり、弱った体で大和を目指して進んで行ったが、
 次第に弱り、ついには「わが足三重のまかりなして、いと疲れたり」と漏らし、結局
 その地で亡くなった~

で、以後その地を「三重」と呼ぶようになったということです。


それはともかく、古墳の被葬者?とされる宮簀媛も、学術的には継体天皇の后との
可能性が指摘され、民話的には日本武尊の妻とされているように、少しばかり
ミステリアスな雰囲気を備えた女性だと言えそうです。
しかし、実はその夫である日本武尊とて、それに輪をかけて謎めいた人物なのです。


まず指摘できるところは、自分の父も天皇(第12代・景行天皇)であり、息子も天皇
(第14代・仲哀天皇)
になっているのに、なぜかこの日本武尊だけは天皇になって
いないという点です。


その理由を筆者は、勝手にこのように捉えています。
~日本武尊は今でいう「発達障害」もどきのものを抱えていたのではないか?~
その裏付けとして、親の言いつけを誤解して双子の兄を殺してしまうなどの
エピソードを挙げてもいいのかもしれません。


最後に「断夫山古墳」という一風変わった名称の由来を。
「ダンプ」という語呂からダンプトラックや、昭和の女子プロレスラー・ダンプ松本を
連想する向きもあるかもしれませんが、それははっきり間違いです。


実はこんなお話になっているからです。
~(伊吹山からの)帰りに病死し白鳥となって飛び去ったと伝えられている日本武尊。
 この後に妻の宮簀媛は、そうした夫・武尊への思いを抱いたまま亡くなったため、
 夫を断つ山「断夫山古墳」と名付けられた~


ええ、古墳の名称自体からしてひょんな魅力が漂っている、ということです。


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