付録編19/相国寺三山の文化と画僧たち
筆者の生息地・名古屋において少し先に「相国寺展」なる催しが予定されていることを
つい先日の地元新聞の日曜版(2024・09・24)特集記事で知りました。
よく見ると主催者の一覧にその地元新聞社の名もあったので、ある種の「宣伝記事」
ということかもしれません。
この記事の総タイトルは「相国寺と絵師」とされ、ちょっとばかり迫力を感じさせる
案内になっています。。
~室町幕府・足利義満の発願によって創建された京都・相国寺。
金閣寺、銀閣寺として名高い世界遺産の鹿苑寺、慈照寺を有し、創建以来、文化の
発信地となり、雪舟や伊藤若冲などの著名なアーティストを育んできました~
さて、そこに名のある足利義満(1358-1408年)とは、室町幕府第三代将軍であり、
別には「日本国王」を名乗ったことでも知られる人物です。
ところが、筆者はその義満が創建したとされる「相国寺」、そのお寺自体を
よく知りません。
そういう事情もあって記事の流れをおとなしく受け止めるほかはなく、自然と
それに続く「相国寺三山」とするタイトルに目が移っていきました。
すると、その「三山」には、鹿苑寺(金閣寺)/相国寺/慈照寺(銀閣寺)の名が挙げられて
おり、さらには簡略な地図で互いの位置関係が京都の町を横一直線に横切る配置で、
~相国寺は金閣寺と銀閣寺の中間にある~ことが示されています。
絵地図を追っても確かにそのようになっていましたが、もう少し詳しくなら、
三山のうちで最も西側に位置するのが鹿苑寺(金閣寺)であり、そこから東へ
直線距離にして3.5KMほど進むとそこが「相国寺」。
そして、そこからさらに東へ直線距離にして同じく3.5KMほど進むと「慈恩寺」(銀閣寺)
という位置関係です。
京都市中
西から) 金閣寺 / 相国寺 / 銀閣寺
つまり、相国寺は金閣寺・銀閣寺のちょうど「ド真ん中」に位置しているというわけです。
とはいうものの、純血尾張者である筆者などは金閣寺や銀閣寺のイメージならなんとか
思い浮かべることができるもというものの、「相国寺」についてはさっぱりです。
そこで、否応なくその「相国寺」(しょうこくじ)の輪郭に探る羽目に追い込まれます。
すると、
~臨済宗相国寺派の大本山。 京都五山第二位。 正式名称は「萬年山相国寺」。
1382年、室町幕府3代将軍・足利義満の発願により創建。
焼失と復興の歴史を繰り返した~
ついでのことですから、「相国寺三山」(金閣寺・相国寺・銀閣寺)それぞれにも
触れておくことにしましょう。
〇鹿苑寺(金閣寺)/
1397年、足利義満が鎌倉時代の公卿(くぎょう)・西園寺公経の別荘を譲り受け、
山荘・北山殿を創ったのが始まりとされる。
義満の死後、義満の法号鹿苑寺殿から鹿苑寺と名付けられた。
舎利殿「金閣」が特に有名なため金閣寺と呼ばれる。
〇相国寺/臨済宗
現存する法堂は、1605年に再建された日本最古の法堂建築。
鹿苑寺(金閣寺)・慈照寺(銀閣寺)は相国寺の「山外塔頭」(さんがいたっちゅう)
である。 全国の末寺は約100箇寺。
〇慈照寺(銀閣寺)/
鎌倉幕府8代将軍・足利義政(1436-1490年)によって造営された山荘・東山殿が
始まり。 義政没後寺院となり、義政の法号慈照院殿から慈照寺と名付けられた。
金閣寺に対し銀閣寺と呼ばれるようになったといわれる。
ところが、相国寺の説明に登場した「山外塔頭」の意味が分かりません。
そこで、面倒臭いのに堪えながらあれこれ確認に及ぶと、これくらいの意味合いで
あることが分かりました。
~大寺院の敷地の外にある小寺院や別坊、脇寺のこと~
ですから、会社でいうなら「支店/営業所」もどきのイメージになるのかもしれません。
面倒ついでに「銀閣寺」自身のホームページも覗いてみました。
すると、そこにこんな文言が記されています。
~金閣寺、銀閣寺がともに相国寺の塔頭寺院であることは、あまり一般に知られて
いないのではないでしょうか~
そういうことなら、筆者が知らなかったのも無理もない。
そしてお題は本題である「著名アーティスト」へと進んでいきます。
最初に~室町時代~が設定され、その項はこんな説明になっています。
~足利将軍家の唐物(中国)趣味と深く関わったことで、独自の文化を築いた。
相国寺の画僧たちが将軍家の御用絵師に就任。
水墨画の歴史を彩り、室町文化の歴史に新しい風を吹きこんだ~
この「画僧」とは字面そのまんまの意味合いで、
~僧侶であって絵をよくする者。
特に、密教寺院で仏教図像を描く僧や、禅僧で画家を兼ねている者をさす~
ですから、
~当時の先端文化は、こうした画僧たちを抱えていた相国寺にあった~
と言っている印象になりますが、そのらへんの念押しの意味か二人の画僧の名が
挙げられています。
〇如拙/生物年不詳
南北朝時代から室町時代中期の相国寺の画僧。
足利将軍家御用絵師。 足利4代将軍・義持(よしもち/1386-1428年)に
命じられて描いた「瓢鮎図」(ひょうねんず/退蔵院蔵)が名高い。
〇周文/生没年不詳
相国寺で如拙に画を学ぶ。 画僧として有名だが仏像制作にも携わった。
足利将軍家御用絵師。
さらに、記事は以下のように続いていきます。
~北山文化~
3代将軍・足利義満の時代、「観阿弥(かんあみ)」「世阿弥(ぜあみ)」が能を
大成。 中国文化の影響を受けた水墨画などが流行。
豪華絢爛(けんらん)な「金閣」は北山文化の象徴。
〇雪舟(1420-1506年)
室町時代に活躍した画層。 岡山県で生まれ、十代で相国寺に入り修行。
48歳、遣明船で中国に渡り、帰国後は独自の画風による水墨画を確立する。
~東山文化~
8代将軍・足利義政(1436-1490年)の時代、「茶の湯」「生け花」など多様な
芸術が花開き、雪舟の活躍など「水墨画」が最盛期を迎えた。
雪舟「毘沙門天図」 / 伊藤若冲「鹿苑寺大書院障壁画」
ああ、これでめでたく金閣寺/相国寺/銀閣寺/の揃い踏みの体裁が整ったわけだ。
しかしそれを支え続けてきた足利氏、言葉を換えるなら「室町幕府」が凋落して
しまったのだから、ここで「試合終了」?
かと思いきや、実は記事はさらに続いているのです。
~安土桃山時代~ 消失と復興
相国寺は何度も火災に見舞われては復興を繰り返した。
本格的な復興が始まったのは、1584年に西笑承兌(せいしょうじょうたい)が
入寺してから。 豊臣秀吉に仕え、有力なブレーンとして重用された。
西笑によって、相国寺再建の資金が集められ、豊臣秀頼の寄進により1605年に
法堂が完成した。
~江戸時代~ 伊藤若冲と相国寺
京の絵師や文化人らを支援していた相国寺の第113世住職・梅荘顕常
(ばいそうけんじょう)が才能を見出したのが伊藤若冲。
「若冲」という画号も命名したといわれる。
着物問屋の主人から、画業に専念して間もない若冲が梅荘顕常の後ろ盾で
「鹿苑寺大書院障壁画」を描いた。
若冲の代表作「動植綵絵」(皇居三の丸尚蔵館)は相国寺に寄進された作品。
〇伊藤若冲(1716-1800年)
江戸時代の画家。 大胆な水墨画と濃密で鮮やかな着色画が特徴。
「鹿苑寺大書院障壁画」は50面の水墨障壁画であり、44歳のときに手がけた代表作。
そしてシメはその展覧会の案内。
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〇「相国寺展-金閣・銀閣 鳳凰が見つめた美の歴史」
〇愛知県美術館 2024年10月11日(金)~11月27日(水)
〇伊藤若冲をはじめ、雪舟や狩野派、円山応挙など豪華な絵師たちによる掛軸、屏風絵や
絵巻物、その他書など幅広い所蔵品を通じて、相国寺文化圏の歴史を振り返る。
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ひょっとしたら観覧料の1,800円がヒマ人の世界感を広げるキッカケになるかも、です。
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