地元編02/元禄尾張藩士の26年日記
ひょんなことから、町内長老の思い出話を聞く羽目になって・・・そのひとつがこれ。
長老ご自身の記憶によれば、なんでも1984年(昭和59年)頃のことらしいのですが、
こんな本が出版され、随分と評判になったとのことです。
つまり、今から数えれば40年ほど以前の超昔々の出来事になります。
その本とは、尾張藩士・朝日重章(文左衛門/1674-1718年)が残した日記
「鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)」をネタ元として神坂治郎が自らの著として
蘇らせた「元禄御畳奉行の日記」。
最近の出来事に対する長老ご自身の記憶は少々危なっかしい気配があるものの、
40年も昔の記憶ともなれば、それはもうバッチバチですから、基本的にそれほどの
思い違いはないものと判断されます。
それによれば、この日記には、当時つまり元禄尾張の日常の生活や、当時の社会の
様子が活写されていたとのことで、これが40年前の日本人には非常に新鮮に
映ったものだと、長老は宣っておいででした。
こうしたお話の流れですから、やっぱり読むことを強く勧められることになり、
結局筆者もその本を読むハメに陥ったのです。
有難いことに、その本は地域の図書館にもバッチリ備わっていました。
内容については、こんな説明になっていました。
~この日記は1691年から始まり1717年(亡くなる前年)まで、なんと26年余に
渡って休みなく書き続けられた~
日記には「三日坊主」という言葉がセットになることが少なくありませんが、
それが「26年余」もの間継続されたというのですから、これだけでも筆者には
大いなる驚きでした。
そればかりか、この日記が取り上げている話題も「豊富」というか「ごった煮」と
いうか、「ナンデモアリ」状態で、
~その内容も身辺雑記に始まり、趣味の魚獲り・バクチ・グルメ・世間のスキャンダル・
噂話・事件など、およそ文左衛門自身が興味を抱いたことほとんど全てに及ぶ~
そういうことなら、退屈することもあるまい。
そこで少しばかり読み進めてみると、現代人が少なからず「意外」と感じることも
書かれています。
たとえば、この文左衛門サンの勤務日数が「週一日」どころか、なんと
「九日に一日」くらいのペースだったこと。
このことは、残業や休日出勤をごく「当たり前のこと」としていた長老世代なぞに
とっては、ちょっとしたカルチャー・ショックだったことでしょうよ。
なにせ若い頃の長老は、いわゆる「モーレツ社員」のひとりだったそうですから。
しかしまあ、勤務日が「月に三日四日」程度だとしたら、ではそれ以外の日、
すなわち休日はいったい何をして過ごしていたのか?
読み進んでみると、この文左衛門サンの場合は、無類の「酒好き」で「芝居好き」
ということもあって、専らこちらの方面に精を出していた様子が窺えます。
ただし、そうした趣味の一つにと「魚獲り」が挙げられている点だけは少しばかり
気にもなりました。
なぜなら、時代は五代将軍・綱吉の治世(在任:1680-1709年)で、いわゆる
「生類憐れみの令」が布かれていた時期からです。
念のためにその「生類憐れみの令」にも触れておきましょう。
こんな説明になっています。
~徳川綱吉の治世中数十年にわたって100回以上出された生類(生きもの)保護に
関する法令の総称~
なんと! 一本のまとまった法律ということではないようです。
それどころか、さらにはこんな案内も見つけました。
~正確なスタート時期は分かっていませんが、綱吉が即位した延宝8年(1680年)には、
馬の足並みをよくするために筋肉を切る、という風習を禁じており、
これが生類憐みの走りだったのでは、とされています~
将軍になった途端に、もうこの政策をスタートさせていたということになりそうです
~生類憐れみの令でも当然鷹狩りや放鷹を禁止したほか、(中略) 対象は
両生類や爬虫類、魚類、虫類にまで及びました。
しかし、庶民の娯楽まで規制対象にしたことで、江戸の庶民からの不満はさらに
高まりました~
そりゃそうかもしれません。
~亀の飼育は禁止、金魚の飼育は届け出制、船での釣りは禁止、虫の飼育も禁止~
これでは、庶民の不満も募り溜まります。
そうした社会環境下において、日記に趣味として「魚獲り」を悪びれず堂々と記して
いるのですから、これはやはり気になります。
つまり、文左衛門サンご自身には、この行為が重大な「法令違反」?であることを
気にする様子は微塵も伺えないのです。
では、もし、生類憐れみの令に違反した場合はどうなったのでしょうか。
こうした噂も上がったようです。
〇鳥を捕らえたことで獄門やさらし首にあった。
〇犬にかまれて切り殺した武士が切腹に追い込まれた。
〇流罪や江戸からの追放、閉門などの罰則もあった。
こんなガチガチの状況があったとするなら、さすがの文左衛門サンもアウトだったに
違いありません。 ところが、そこまでガチガチでもなかったようなのです。
~生類憐れみの令で処罰された記録として拾えた69件のうち、極刑は13件~
綱吉の29年間の治世全体で処罰が合計69件ということなら、年間に直して
2~3件程度ということです。
だったら、現代のおける殺人事件の方が遥かに多いことになります。
しかも、文左衛門サンの日記には、趣味の魚獲りがなんと76回もシッカリと
記されているとのことですから、
~生類憐れみの令が最も適用されていたのは幕府のおひざ元・江戸で、
地方についてはそこまでしっかりと守らず、罰則が緩いケースもあった~
こうした環境が、確かにあったことになりそうです。
そこで、筆者なりのイメージを広げてみました。
~将軍様のお膝元(江戸)においてはともかくも、ひょっとしたら、尾張辺りにも
なると「法令順守」の精神はかなり希薄だったのではないか~
事実、尾張藩自身の記録にも三代藩主・徳川綱誠(つななり)が、1698年に
末盛山(現名古屋市千種区)で鹿狩りを行ったことがきっちり書き残されている
とのことです。
もっとも、尾張者は身分の上下に関係なく、昔の昔から隠し事が嫌いな正直者が
多かったということなのかもしれませんが。
それはともかく、文左衛門サンの日記に戻ると、あの「元禄赤穂事件」(1701年)に
ついても触れていました。
ただ、当初の「殿中刃傷沙汰」や「浅野内匠頭の即日切腹」、その後の
「吉良邸討入り」については記しているものの、意外なことに「浪士切腹」に
ついては書いていません。
また、文左衛門サン自身が歴とした尾張藩士ということもあって、その旺盛な
好奇心は当然ながら、藩の内情にも向けられています。
そして、これがまた、現代の「週刊誌」「三面記事」もどきの内容まで含んでいて、
ちょいとばかり面白いのです。
犬公方・徳川綱吉 / 吉良邸討ち入り
尾張藩主・徳川吉通(在任1699-1713年)の生母・本寿院(1665-1739年/綱誠・側室)
も取り上げています。
実はこの女性、とにかく「絶世の美女」との評判の反面、一方ではとかくの
「性的スキャンダル」を噂された方だったようです。
この本寿院は、夫・綱誠(吉道の父)亡き後、江戸屋敷に続き75歳で亡くなるまで
名古屋での幽閉生活を送りましたが、その理由は幕府がその「ご乱行」?を
咎めたからとされています。
で、文左衛門サンの紹介?です。
~多くの男性と関係をもち貪淫絶倫にして、幽閉後も・・・~
このあとにはもっと露骨な描写もありますが、青少年に与える影響も配慮して、
ここではスッパリ割愛。
さて、その文左衛門サンは男子に恵まれなかったことから、娘に養子を迎え跡継ぎに
立てました。
しかし、その養子が病弱だったこともあって、ほどなく知行を返上。
この後、結局朝日家は断絶しています。
その時点で、文左衛門の日記「鸚鵡籠中記」の存在を知った藩は、これを秘蔵する
ことに決めました。
藩の醜聞やら、当時の「生類憐れみの令」に対する法令違反?やら、藩にとっても
都合の悪い諸々のことまでもが遠慮なく書き連ねてあったのですから、
「おクラ入り」は現実的で、かつ懸命な判断だったと言えそうです。
で、その後250年(昭和40年代まで)ほど蔵の中?に収まり、冒頭にあるように
1984年、「元禄御畳奉行の日記」として、久々に世間の注目を浴びることに
なったわけです。
公式な記録というものは、諸般の事情も重なることから得てしてウソや誇張や
自己弁護が混じった「大本営発表」?になりやすいものですが、その点、
個人の「記録」にはそうした制約の網が掛かることが少なくなるのも一面の事実で、
実際、文左衛門サンの「日記」もその通りの内容になっています。
こうした傾向をもう少しデフォルメさせると、
~当時の「政府発表」より、「個人の日記」の方が遥かに正しい情報を発信していた!~
こういうことだって、あり得ないわけではありません。
つまり言葉を変えるなら、ひょっとしたら、アナタの日記が250年後になって
見直され、「歴史を書き換える」ことになる可能性だって絶対にないとは
言いきれないということです。
ですから皆さん! ~アナタも日記を残しなさい~
もっとも、子供の頃の「絵日記」程度しか御縁のなかった筆者の提言では、
いささか迫力不足かもしれません。
しかし、・・・「善は急げ」とか「気は心」なんて言葉だってあるのも
一面の事実ですからねぇ。
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