油断編16/将軍の多忙な日常時間割
江戸時代のあれこれを紹介した本にひょいと出会い、何気にそれを眺めていた
ところ、ひょっこり「将軍の一日」というページに行き当たりました。
これまでの筆者は、実は一度たりとも「将軍生活」というものを経験したことが
ありませんでしたから興味津々です。
そこで首を突っ込んでみたところ、ご丁寧にも将軍生活のイラスト入り日課時間割も
添えられています。
しかも、ご親切なことにその時間割も当時実際に用いられていた「不定時法」による
表現ではなく、現代時間にザッと直したものになっています。
筆者にとっては大助かりで、そのこともあってついつい覗き込むことになったのです。
折角ですから、現代人には馴染みが薄いであろうはずの「不定時法」にもちょっとだけ
触れておきましょう。
しかしながら、割合に分かりやすい説明でも下の程度ですから、チャキチャキの
現代人である筆者、あるいは皆さまにとっても大層に分かりにくい。
~明け六ツ(日の出)、暮れ六ツ(日没)が基準になる~
なるほど、まず最初に基準になるものを示さないと話が進まないわけだ。
これはいいとしても、この後の説明がだんだんに煩わしいものになってきます。
~その間を6等分したのが一刻であり、そのため季節によって一刻の長さは異なる~
基本単位になる「一刻」の長さが、一定ではなく季節によって異なるために、
それで「不定時法」と呼ぶということを知ったところで、さらにこんな説明が続きます。
~一刻は≒2時間/その半分の半刻(はんとき)は≒1時間/四半刻(小半刻)は≒30分~
その順番でいけば「八半刻≒15分」になるところですが、そんな表現にはぶつかり
ませんでしたから、そうした表現を必要とするほどは忙しくはなかったということ
なのかもしれません。
そしてさらに「ややこし感」が迫ってくるのが、「時刻」と「時間」の表現法です。
~「時刻」をいう場合は、たとえば24:00は夜九つ、 01:00は夜九つ半のように
数字で表す~
それに対し、
~「時間」をいう場合は、たとえば午後11時~午前1時頃は「子の刻」のように
干支を用いる~
そうした表現ルールになっているとのことです。
ということで、この先は根気を持ち合わせたヒマ人の自由研究課題にするとして、
ここでお話を本題の「将軍の一日」に戻します。
当時の庶民はその生活ぶりを知りようもありませんでした。
将軍なんて存在はそれこそ雲の上であり、栄華の極みですから無理もないことです。
そうした将軍職が優雅なものだったかと言えば決してそんなことはなく、なんと
「年中無休」状態だったとされています。
働き方改革っという発想なんてものもなかったということなのでしょう。
念のために、その日課を現代の時刻に直して追ってみると、ざっとこんな按配に
なっています。
〇06:00 起床。
〇06:30 身支度。
〇07:00 仏壇拝礼。
〇07:30 さらには大奥の奥方にも挨拶。(部屋は700Mほど離れていたとか)
〇08:00 朝食。 (小姓による頭、顔剃り、髪結いがあり、さらには同時進行の
カタチで六人の医師による健康診断も)
ただし、顔と頭を剃るとき、将軍が表情を変えると剃り手の小姓が緊張して手元が
狂うので、将軍は無表情を保ったままの「黙食」で。
それが済むと神棚を拝します。
〇09:00 学問の時間。(当代一流の学者がマンツーマンで)
ちなみにその課目は、四書/五経/兵法書/史書/経世書/漢詩/和歌/習字/
精神訓話/などとのこと。
ふえぇ、決してお気楽とは申せません。
〇12:00 昼食。 朝食と同じ程度の一汁二菜。
ただし、急用の政務があった場合は政務が優先とされ、運が悪いと「昼食抜き」の
ことも。
〇13:00 政務。 書類にサイン、捺印する。
ただし、疑問点があれば担当者を呼んで問いただすこともし、さらには処理件数が
追い付かない場合などは「残業」もあり。
〇16:00 武技。 弓/剣/薙刀/槍/馬/水泳/など武芸十八般を各兵法者から
ミッチリ叩き込まれる。
特に、将軍家兵法指南に採用された柳生派の剣の稽古は実践本位で激しく、
将軍であってもとんと手加減なしでシゴイたようです。
「征夷大将軍」とは言い換えれば、軍の最高司令官ですから軟弱であっては
ならないということなのでしょう。
柳生新陰流 / 第11代将軍・徳川家斉
これで一日が終わったわけではありません。
夕刻以後も結構タイトにスケジュールが組まれているのです。
〇18:00 一汗(二汗?三汗?)かいたところで入浴。
身体は小姓が二三人がかりで洗い、将軍御本人はなんにもしないそうな。
〇19:00 夕食。
豪華なディナーを腹一杯ということにはならなかったようで、こんな注記も。
/ちょっとした煮物や焼き魚が加わる程度。
/飯は洗米を湯で煮上げ、さらに蒸したパサパサのおから状態。
/魚類も入念水洗いで脂を抜き去ったデガラシ状。
/蛋白質脂肪分の極端に少ない低カロリー低栄養素。
/好き嫌いは厳禁。
(食べ残すと医師が飛んできたり、調理人が叱責されたりで大変)
/お酒もあったが、将軍家は血縁代々の忌日が多いため、月の大半が
精進日にあたり、その日は魚介も酒類もダメ。
〇21:00 政務が残っていれば残業し、学者から課題が出されていればこれもこなす。
(徹夜もあったとか)
それらを全部済ませれば、やれやれ就寝となりますが、大奥泊まりは忌日以外の
数日のみで普段は自室で。
しかも、側には二~四人の小姓が二十四時間離れずに交代制(二時間程度?)で
付きましたから一人静かに物思いというわけにもいきません。
「二十四時間離れず」ということは、逆に言えば将軍のトイレにも小姓が随行した
ということですから、ほんとウットウしいったらありゃしない。
では、その小姓たちが「将軍の尻拭き」までしたのかと思いきや、奥方のケースとは
違って、それはどうやら将軍自身が行ったようです。
そうした生活環境にあって、前夜の就寝時間に拘わらず、翌日の将軍はまた
06:00に起床し、前日と同様な時間割をこなしていくのです。
そういうことなら、つまり「小姓が二十四時間離れずに侍っていた」のであれば、
将軍が「一人ぽっち」になる時間はないはずです。
ところが「事実は小説より奇なり」なんですねぇ。
実は「孤独死」?、というか、誰にも看取られることなく臨終した将軍がいました。
江戸幕府第11代将軍・徳川家斉(1773-1841年)がその人です。
〇妻妾16人、儲けた子供の数(男子26人、女子27人、合計53人)
〇オットセイの陰茎を粉末にしたものを飲み精力増強に努めた。(オットセイ将軍)
〇将軍職在任期間(1787-1837年)50年は江戸幕府将軍だけでなく歴代の
征夷大将軍の中でも最長記録。
など、賑やかな話題が多い人物ですが、実はその最期は放置されたままに息を
引き取ったと伝えられています。
要するに誰も看取る者もなく、「一人ぽっち」の状況で享年69の生涯を閉じたと
いうことです。
その死因については定かではありません。
しかし、責任を問われた侍医長が処罰された記録が残っていたり、またその命日に
関しても記録によって食い違いがみられることから、幕府には家斉の突然死?を
秘匿する必要があったことも推察されるところです。
「小姓が二十四時間離れずに侍っていた」ことを杓子定規・几帳面に遵守して
いたのであれば、「誰にも看取られずの最期」ということにはならなかったはず
ですから当然かもしれません。
幕府にとっては少なくとも「想定外」の出来事だったことは間違いなさそうで、
それなりのバタバタを演じてしまったということなのでしょう。
大勢に囲まれて毎日を送る将軍にですら、このように「孤独死」?はあり得る
のですから、そうしたことを無くすためにも、町内のミナサマの御老体に対する
日頃の目配り・気配り・声掛けなどは、案外に重要なことなのかもしれませんねぇ。
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