災難編23/繰り返された乱心騒動
日本史的にはあまり有名ではなさそうですが、江戸期にこんな人物が登場しています。
志摩国・鳥羽藩の第二代藩主・内藤忠政(1615-1673年)。
子供たち数多く儲けたようで、諸情報を整理してみるとこのくらいになっています。
〇長男・忠次(1645-1704年) 後に病気により廃嫡。
〇次男・忠勝(1655-1680年) 父・忠政死去後に鳥羽藩第三代藩主に。
〇三男・忠知(生没年不詳) 兄・忠勝より2000石を分与される。
〇娘・波知(はち/生年不詳)浅野長友の正室で長男・長矩、次男・長広の生母。
〇この他に四人の「娘」 但しこちらは婚姻先のみの案内。
さて、これもまたあまり有名な出来事とは言えないのかもしれませんが、
この内藤忠勝が実はこんな「事件」を引き起こしています。
第五代将軍・徳川綱吉(1646-1709年)の治世だった延宝8年(1680年)のことです。
第四代将軍・徳川家綱(1641-1680年)の七七日法要(いわゆる四十九日)に際し、
この忠勝は芝・増上寺参詣口門の警備を命じられました。
ところが、同じく出口勝手門の警備を命ぜられていた永井尚長(1654-1680年)とは
何かと折り合いが悪かったようです。
そして、その永井は永井でまた、その日に老中から受けた翌日の指示を記した奉書を
忠勝には見せようとはせずにそのまま立ち去ろうとしたのです。
このまま立ち去られたのでは、忠勝は明日の役目を全うすることができません。
そこで忠勝は奉書を見せてくれるよう永井に求めたのですが、上席の立場にあった
永井はこれを無視しました。
今風なら「パワハラ」もどきの行為ということにもなりそうです。
このあまりの対応にすっかり血がのぼってしまったのが忠勝でした。
「なんだぁ、この野郎め!」と言ったかどうかまでは知りませんが、ともかく、
やにわに脇差を抜くや永井に迫り、逃げようとするところで、さらにその長袴を
踏み付けて転倒させ、ついには刺殺にまで及びました。
このために「殺人現行犯」となった忠勝は、結果的に切腹(享年26)を命じられて、
結果、御家は断絶とされてしまいました。
これが日本史的には「芝増上寺の刃傷事件」と呼ばれる出来事の経緯ですが、さらには
忠勝の弟・忠知は、その身内の者として、一旦は出仕を止められるという処置を受け
ました。
ただ、最終的には許され、こちらは御家が断絶されることはありませんでした。

この出来事についてはこんな見方もあるようです。
~この殺人事件は内藤忠勝の「乱心」によるもの~
その理由について、こんな推察も示されています。
~そもそも、この内藤家は精神病質の家系だったのではないか?~
念のためですが、もしこの「精神病質」という表現が差別語の対象になるということ
でしたら、読者において適切に読み替えて頂くことをお願いしておきます。
そうしたルールにはとんと疎い筆者ですので、余分な御手間を取らせることになり、
まっこと申し訳ありません。
つまり、筆者はこう言いたいわけです。
~そもそも忠勝の兄・忠次が家督相続を辞退した(させられた?)のは、やはり
「精神病質」を抱えていたことが理由であり、また忠勝自身もそうした体質を
受け継いでいたのではないか?~
そういうことなら、こういう理解もできることになります。
~「芝増上寺の刃傷事件」は内藤忠勝の乱心が、その原因であった~
この見方がそれなりの説得力を持つと思われるのは、実はこの忠勝の姉・波知の存在です。
ええ、先の紹介もこうなっていました。
~(波知は)浅野長友の正室で、長男・長矩、次男・長広の生母~
この長男・浅野長矩とは、江戸城内において礼法指南役・吉良義央(上野介/
1641-1703年)に対し、あの「殿中刃傷事件」(1701年)を引き起こした
「浅野内匠頭」(1667-1701年)のことです。
結果として、こちらも切腹を申し渡されています、
ですから、こういう言い方もできるわけです。
~「波知の実弟」である内藤忠勝が「芝増上寺の刃傷事件」を引き起こし、
その21年後の「殿中刃傷事件」の実行者は「波知の実子」である浅野長矩だった~
この関係を整理してみると、内藤忠勝と浅野長矩は、つまるところ「叔父・甥」の
血縁関係になり、それを繋いでいるのがこの女性・波知ということになります。
ということもあってのことでしょうが、実はこの浅野長矩の犯行動機としても
「乱心」が疑われた事実があります。
そりゃあそうかもしれません。
こともあろうに将軍のお住まいである江戸城内において、しかも勅使饗応という幕府に
とって特別なイベントを進めている最中に、さらには明瞭な理由もなく突如として
脇差を抜いて斬りかかったのですから、普通には尋常な行動とは考えにくい。


殿中刃傷事件 / 吉良邸討ち入り
しかし、この事件に対する将軍・綱吉の怒りは、乱心が原因とする冷静な見解を
上回るほどに激しいものがあったようす。
綱吉にすれば、よりによって勅使饗応の晴れの舞台を血で汚されたことになりますから
無理もないことです。
筆者のようなよほど穏やかな人間だって、これは怒っちゃいますよ。
ことのついでに触れておくと、この「波知の血縁」には実はさらにもうひとり
「殺人犯」がいるのです。
「波知の従兄甥」に当たる稲葉正休(いなばまさやす/1640-1684年)です。
ちなみに、この「従兄甥」は「いとこおい」と読み、「自分のいとこの息子」の
ことを指し、その関係によって「兄・弟・姉・妹/甥・姪」の漢字が使われます。
その稲葉正休が起こした殺人事件とはこんな按配のものでした。
~江戸城で、従甥(イトコの息子)に当たる大老・堀田正俊(1634-1684年)を殺害し、
自身も斬殺された~
もっとも堀田は即死ではなく、医師の手当を受けた後、重体のまま自邸に運ばれ
そこで息を引き取ったと説明されています。
ちなみに、稲葉から見た堀田は「伯母の孫」であり「従甥」との説明になっていますが、
これでホントに正しいのかどうか、すぐにはピンとくるものではありませんから、
念のために確認しておきます。
本人と「叔母の子」なら、これは「イトコ」の関係です。
そして、もう一世代下の「伯母の孫」ということなら、こちらも一世代下の
「イトコの子」となりますから、この「従甥」という説明は正しいようです。
しかし、これもまた「波知の血縁者(従兄甥)」による犯行となると、やはり「乱心」に
よるものかと思いたくもなるところです。
ところがギッチョン、実際にはそうではないようなのです。
なぜなら、こんな説明になっているからです。
~稲葉正休は、大老(堀田正俊)暗殺に当たって高名な刀鍛冶に数本の刀を特注し、
試し斬りの末に一番出来のよいものを差して登城し、さらには邪魔が入りにくい
よう御用部屋の入り口まで正俊を呼び出して一突きで殺した~
実に用意周到なやり方ですから、「乱心による発作的犯行」とは考えにくい。
ですから、この事件は別扱いにするとしても、こういうことは言えそうです。
~内藤家出身のこの「波知」という女性の血筋には、「乱心」による犯行が
疑われる者が複数いる~
ことほど左様に、なぜかこの「波知の血筋」には血生臭さが漂っていて、恐怖映画の
タイトルなら「血塗られた一族/呪われた家系」くらいになるのかもしれません。
ですから、お話を少し飛躍させると、こうも言えそうです。
~「芝増上寺の刃傷事件」(1680年)の顛末は、実行犯の血縁者である播磨赤穂藩主・
浅野長矩(当時14歳)も、またそれに仕える同藩の若き家老・大石良雄(内蔵助/
1659-1703年/当時22歳)の両者もよく承知していた~
つまり、主君・長矩の「殿中刃傷事件」を知った家老・大石の頭には、その瞬間
こんな思いが去来したのではないかということです。
~それが「乱心」による犯行と認められるなら、21年前の内藤忠勝の場合のように、
本家は断絶となっても分家(弟の御家)までが断絶されることはないはずだ~
その上に、こんな期待?も生まれます。
~それに、内藤忠勝は「殺人」だったが、ウチの殿様(浅野長矩)の場合は、
ちょっとした「傷害」に過ぎないのだから、話の持っていきようによっては
「本家存続」だってあるかもね~
こうした期待を持って、その後の国家老・大石内蔵助は幕府に対して「本家存続」の
運動を仕掛け続けていたのではないか。
ところが、幕府の空気に「その目はまったくない」ことを思い知らされるに至って、
そこで初めて「吉良邸討ち入り」の腹を固めた。
こういうことだったとしたら、「殿中刃傷」から「吉良邸討ち入り」まで、それなりに
長い時間が費やされたことにも納得がいくところです。
ともあれ、こうした歴史を知るにつけ、この内藤家出身の女性「波知」の周囲の
人間の中には、「ひょっとして身内の誰ぞがまた何ぞかを」という不安・危惧を
抱いていた者もいたような気もしている今日この頃の筆者です。
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