事始め編34/火縄銃狙撃での暗殺計画
鎌倉幕府初代将軍・源頼朝(1147-1199年)が開催した富士の巻狩り(1193年)の際に、
工藤祐経(1147?1154?-1193年)を父親の仇として討ったのは、曾我十郎・五郎の
兄弟でした。
「ちなみに」を補足をするなら、そこで催された「巻狩り」とはこんなことでした。
~鹿や猪などが生息する狩場を多人数で四方から取り囲み、囲いを縮めながら獲物を
追いつめて射止める大規模な狩猟~
「ちなみに」をもうひとつ並べておくと、この「曾我兄弟」の名前は、兄の方が十郎
(祐成/1172-1193年)で、弟の方が五郎(時致/1174-1193年)ですから、
ちょっとばかり注意が必要です。
その仇討ちはこんな具合だったとされています。
~兄弟は侍所に入り込み、寝ていた工藤祐経らの姿を確認した兄・十郎は太刀で
祐経の肩を刺したものの、頼朝の護衛らとの戦闘の末討たれた~
では、弟・五郎はどうだったかと言えば、
~五郎は将軍・頼朝を目掛けて走ったが、家臣らによって取り押さえられた~
そして、翌日に梟首(斬首の末公衆の前にさらす)の刑に処せられています。
これは「日本三大仇討ち」の一つにも挙げられるほど有名なお話ですが、この曾我兄弟
の真の目的が「工藤祐経討ち」ではなく、「頼朝暗殺」にあったのではないかという
見解もあります。
なぜなら、~このとき、五郎は将軍・頼朝を目掛けて走った~とされているからです。
真の目的が父親の仇討ちだったとしたら、これはいささか不可解な行動とも言えます。
その意味では「通説/定説」とは認められていないのかもしれませんが、筆者などは
これを「曾我兄弟の仇討ち」事件というよりは、むしろ「源頼朝暗殺未遂」事件という
見方に重点を置いて眺めているところです。
なぜなら、こんな歴史的背景、史実があるからです。
~後には、鎌倉幕府二代将軍・源頼家(1182-1204年)も、続く三代将軍・実朝
(1192-1219年)も、揃って暗殺されている~
曾我兄弟の仇討ち
さて、それから300年以上の時が流れて戦国時代の最中にある1570年のこと。
もう少し具体的になら、越前国・朝倉氏攻めの途中で、信頼し切っていた近江国・
浅倉長政(1545-1573年)の裏切りにあい、挟撃される形となって一時京都に逃れて
いた尾張国・織田信長(1534—1582年)が、さて岐阜城への帰途についたときの
ことです。
伊勢方面へ抜けるため近江国の千草越え(千種街道)を通過していた折、なんと
銃によって狙撃されるという目にあったのです。
但し、標的となった信長が命を落とすことはありませんでした。
~12-13間(20数m)の距離から火縄銃で2発銃撃したとされるが、信長は
かすり傷のみで済んだ~ 幸運だったわけです。
ただし、この場面では、用いたその火縄銃が連射式だったとも、あるいは複数の
狙撃者がいたとも、さらには銃の消音装置を備えていた、ともされていないよう
ですから、どんな方法で間髪を入れずの「2発銃撃」を実行できたのか、筆者自身は
イマイチよく分かっていません。
しかし、狙撃犯の名前は明瞭に分かっています。
「杉谷善住坊」(すぎたに ぜんじゅうぼう/生年不詳 -1573年)です。
ついでですから、そのプロフィールにも触れておくと、
~鉄砲の名手であったという以外の確かな人物像は不明であり、出身については
甲賀五十三家の一つである杉谷家出身の忍者とも、伊勢国菰野の杉谷城の城主とも、
あるいは雑賀衆、根来衆、賞金稼ぎ、猟師ともいわれている~
要するに、正体ほぼほぼ不明の人物ということになりそうです。
そして、
~(狙撃の)その後、善住坊は逃亡生活を送るが、暗殺されかけた事に激怒した信長の
厳命で徹底した犯人探しが行われた~
まかり間違えば、「自分の命が死んでいた」のかもしれないのですから当然です。
~その結果、捕縛され尋問された後に、生きたまま首から下を土中に埋められ、
竹製のノコギリで時間をかけて首を切断する鋸挽きの刑に処された~
うわっ、これはちょっとばかり腰が引けちゃう描写だなあ。
ということでいずれも未遂でしたが、ここに(曾我)「兄弟犯による」要人暗殺、
また(銃撃)「狙撃による」要人暗殺が並びました。
ところが歴史は面白いもので、この両事件の間に、その両方の条件を充たした、
つまり「兄弟犯の狙撃者による」要人暗殺事件が実際にあったのです。
しかも、こちらは「暗殺未遂」ではなく見事に「暗殺完遂」でした。
時は、杉谷千住坊による「信長狙撃暗殺未遂事件」の4年前の1566年のこと。
登場人物も煩雑になりそうですからか、箇条書きにすると。
〇三村家親(生年不詳-1566年)/備中国の大名。
〇宇喜多直家 (1529-1581年)/備前国の戦国大名(秀家の父)
〇遠藤秀清(生年不詳-1604年)/遠藤兄弟の兄/宇喜多氏家臣
〇遠藤俊通 (1533?-1619年)/遠藤兄弟の弟/宇喜多氏家臣
お話はこんな顛末を辿りました。
~備中国の大名であった三村家親は、さらに勢力を拡大すべく備前や美作国に侵攻し、
美作三星城の後藤勝元を攻撃(1565年)したものの、そこに宇喜多直家らの救援が
入って攻略できなかった。
しかし、翌年も美作に侵攻して宇喜多氏の勢力下の諸城を落とした~
ところがです、お話は急転直下。
~イケイケドンドンの勢いを見せていたその三村家親は美作国(岡山県東北部)・
興善寺[に滞在して重臣一同と評議中に狙撃されて死亡した(1566年)~
早い話が、こういうことになります。
~宇喜多直家の命を受けた遠藤秀清・俊通兄弟が「短筒の火縄銃」を使った狙撃に
よって暗殺を成功させた~
蛇足ですが、このお話によれば、凶器となった「短筒の火縄銃」がこの頃既に開発
されていたことになりますが、そうした火縄銃の歴史について筆者は寡聞にして
存じませんので、御興味の向きはご自身でお調べください。
この点、悪しからずご了解を。
三村家親 / 火縄銃短筒(※江戸時代)
しかしまあ、なんとも上手く「仕留めた」ものです。
~首尾よく陣中に忍び込み狙いを定めて発砲し、三村家親に命中させたが、
陣中に動揺の色は見られなかった~
「動揺の色は見られなかった」理由はこうだったようです。
~遠藤兄弟の放った銃弾は見事に三村家親を射抜いていたものの、三村家重臣・
三村親成(生年不詳-1609年)が機転を利かして陣中を上手く纏め、親成が代行で
指揮を執ったため整然さを保った~
この整然さがあったために、遠藤兄弟から銃弾命中の報告を受けた宇喜多直家も
当初のうち暗殺成功を信じなかったようです。 そりゃあそうでしょう。
重臣一同の評議中に、その目の前で殿様が突如として血を流して倒れたともなれば、
普通は上を下への大騒ぎになるものでしょうからね。
しかし、そうはいってもその死をいつまでも機密にし続けることも出来ません。
「自身の死を3年の間は秘匿せよ」と遺言したとされる甲斐国・武田信玄
(1521-1573年)の死でさえも、あっという間に知れわたりましたものねぇ、
家親の体調不良を理由に備中松山へ引き上げた後になって「その死」は発表され
ました。
これを受けて、宇喜多直家はようやくのこと暗殺成功を認めたようです。
ことがあまりにも目論見通りにしかもスムーズに進んだことに、半信半疑の思いが
あったのかもしれません。
で、この「三村家親暗殺事件」は、銃による要人狙撃事件としては最も早かったとも
されているようです。
なにしろ、これは杉谷善住坊による「織田信長狙撃暗殺未遂」事件より4年も前の
出来事ですからねぇ。
とはいうものの、こう考えることも出来るのかもしれません。
~厳重な機密事項とされたため、ついに公表されることはなかったが、実際には
「要人狙撃暗殺完遂」事件はこの他にもあった~
たとえば、先の武田信玄の場合はどうでしょう。
表向きは「病死」事とされたものの、真相は「狙撃暗殺」の成功例の一つだったと
考えられないわけでもありません。
こうしたことは、やった方もやられた方も少なからず機密扱いとするものだからです。
では、もしそうだったら、その場合の「指令者」は?
「三方ヶ原の戦い」(1573年)で、信玄にボッコボコにされて命からがら城に
逃げ込んだとされる徳川家康(1543-1616年)だったかもしれません。
コジツケが許されるなら、その後において家康が信玄の遺臣を大事に扱った史実を、
その傍証にすることができそうな気もするところです。
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