パクリ編21/思い付きで、街道をゆく
国民作家・司馬遼太郎(1923-1998年)による紀行文集『街道をゆく』は、
著者本人の逝去によって43冊目の「濃尾参州記」を最後に絶筆(未完)となりました。
それを読んだわけでもないのでよく知りませんが、タイトルはおそらく、
美濃国・尾張国・三河国を指しているのでしょう。
もしそうなら、筆者にとってもまるっきり無縁ともいえません。
なんでなら筆者は、えぇ生まれも育ちも尾張国の純血尾張人だからです。
そこで筆者は、ひょっこり思いついたのです。
~そういうことなら、これも何かの縁と思い、筆者の今回記事のタイトルを、
その書名『街道をゆく』にヒントを得るなり、あるいはもう少し直截な表現なら、
無断パクリをさせてもらっちゃおう~
こんな余儀ない事情から今回タイトルを「思いつきで、街道をゆく」としてみました。
ですから、テーマはもちろん「街道」そのものになるのですが、ただその辺りの
知識を筆者はとんと持ち合わせていません。
そこで、まずは正眼の構えを取り、威風堂々と「五街道」から始めることにしました。
まずはその概要です。 すると、こんな説明になっています。
~(五街道とは)江戸時代の江戸・日本橋を起点に伸びる東海道、中山道、日光街道、
奥州街道、甲州街道の五つを指した陸上幹線道である~
でも、どんな経緯があって幹線「五街道」になったのかしらん?
その説明もちゃんと付いています。
~1601年(慶長6年)に徳川家康(1543-1616年)が全国支配のために江戸と各地を
結ぶ上記5つの街道を整備し始め、2代将軍・徳川秀忠(1579-1632年)の代に
なって(幕府直轄の)基幹街道に定められた~
なぁるほど、「五街道」すべてが江戸を起点としているということか。
つまりは、江戸幕府が自らの基盤を固めるために実施したインフラ整備の一環という
位置づけになるようです。
それに基幹街道に指定された時期については「秀忠の代に」とありことから、
必然的に1605年から1623年の間のことになりそうです。
ただ、こんな案内も見つけました。
~(秀忠の代の)1604年に日本橋を五街道の起点として定め、幕府安泰のために
江戸を防衛することを目的として街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった~
五街道
東海道/中山道/甲州街道/日光街道/奥州街道/
その「江戸防衛」については少し後回しにして、折角ならその「五街道」それぞれに
ついて、地理感覚なども含め、もう少しばかり押さえておきたいところです。
ということで、それらをメッチャ簡単整理してみたのが下記の一覧です。
〇東海道(江戸日本橋-京三条大橋)道中53宿/
(尾張国宮宿-伊勢国桑名宿の間は海路「七里の渡し」。
ただし、そのバイパスとして佐屋街道(宮宿から佐屋宿までの陸路)、
佐屋宿から桑名宿まで「三里の渡し」(佐屋川-木曽川-桑名) もあり。
また、宮宿からは脇街道・美濃路と接続し、美濃国垂井宿で中山道と連絡。
その「脇街道」(脇往還/脇道)とは、こんな説明になっています。
~江戸時代の五街道以外の主要な街道をいう~
さらには、
~(脇街道は)各藩の大名に管轄を任せていたため五街道ほど整備は
行き届かなかったが、諸藩の経済や文化の発展に大きく寄与した。
のちに五街道とともに主要幹線道路として幕府から重要視されたため、
幕府直轄となり、道中奉行の管轄(1659年)にあった~
幕府の管轄は五街道以外の街道にも及んだということのようです。
さて、お話は「脇街道」から本題「五街道」の続きへと戻ります。
〇中山道(江戸日本橋-京三条大橋)/道中69宿。
(木曾街道/木曽路とも。 近江国草津以西は東海道と道を共にする)
〇日光街道(江戸日本橋-日光東照宮)/道中21宿。
(日本橋から宇都宮までの道程は奥州街道と共通)
〇奥州街道(江戸日本橋-陸奥国白河)/道中27宿。
(下野国宇都宮宿で分岐し、以南の区間は日光街道と共用)
〇甲州街道(江戸日本橋-信濃国下諏訪宿)/道中44宿。
(江戸・甲府間の37宿を表街道、甲府・下諏訪間の7宿を裏街道と呼んだ)
こうしたことからも窺えるように、それぞれの街道はバッチリと完全独立スタイルに
なっていたわけでもなく、以下の部分では街道が重複していたことが分かります。
〇東海道・中山道(草津-京の区間) /その間2宿
〇日光街道・奥州街道(江戸-宇都宮の区間)/その間4宿
言葉を換えるなら、東海道でもあり中山道でもある、あるいは日光街道でもあり
奥州街道でもある、そういう街道区間もあったということになります。
また、さらにはこのような説明も。
~五街道のすべてには、適当な間隔に宿場を置いて、各宿場に人足と荷駄用の
馬(伝馬)を一定数常備し、幕府公用の役人の荷物運搬にあたらせた。
各宿場には、幕府から幕府公用のための人馬提供を命じられたが、その見返りと
して宿場経営の権利が与えられ、一般客の宿泊や荷物逓送で生計を立てることが
許された~
幕府は経費節減を、各宿場は自治形態を、それぞれが獲得できるわけで、
その意味では巧い形でウィンウィンの関係が構築されていたようです。
さて、ここから少しの間、まったくの余談になりますが、筆者の生息地
(東海道旧宮宿付近)エリアにある地下鉄の駅名が、本年(2023・01・04)から
従来の「伝馬町」から新名称「熱田神宮伝馬町」へと改称されました。
その理由は明快で、それに慣れている地元民には「伝馬町」のままでも不便はない
ものの「熱田神宮」を訪ねたい観光客には新駅名「熱田神宮伝馬町」の方が
分かりやすく、また便利だろうとの配慮からとされています。
えぇ、熱田神宮の普段の日の参拝客は日本人より中国人観光客の方が多いくらい
ですからねぇ。
しかしまあ、なにも筆者が鼻を高くすることでもありませんが、少なくとも筆者の
生息地域では歴史の風情を感じさせる「伝馬」の名称は21世紀の現在もバッチリと
受け継がれているとは言えそうです。
話が逸れましたが、昔も今も街道(道路)のインフラ整備が沿道地域の発展に直結して
いることは間違いありません。
それと同時に、人や物の往来の利便性が高まれば、当然のことながら通信や連絡も
その頻度を増すことになります。
五街道・関所 / 関所・入鉄砲出女
そこで、幕府もそうしたことへの警戒も強めます。
それが上の~街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まった~ということです。
~関所とは、交通の要所に設置された徴税や検問のための施設であり、その機能には
軍事的目的(防衛)、警察的目的(治安)、経済的目的(交通料徴収)がある。
陸路(街道)上に設置された関所は「道路関」、海路に設置された関所は
「海路関」とも呼ばれ、陸路では峠や河岸に設置されることが多い~
そうしたことへの大きな交通政策として、幕府は「入鉄砲出女」に取り組みました。
~入鉄砲とは、江戸に武器が入ってくることの取り締まりを指し、
出女とは、参勤交代制度のために人質として江戸に住まわせた諸大名の妻子らが、
江戸から脱出させないために監視することを指す~
要するに、江戸の諸大名に武器が集まるほど、幕府に対する武力反乱のリスクは高まり、
人質である諸大名の妻子らの脱出を許そうものなら、その分幕府の「反乱抑止力」が
低下してしまうからです。
そうしたリスクを抑えるためにも「入鉄砲出女」は、幕府にとっての鉄板政策でも
あったということです。
事実、関所の存在は、幕府のこうした「入鉄砲出女」取り締まり政策に大きな役割を
果たしました。
さて、お話を続けます。
~五街道は、それに付属する脇街道とともに参勤交代などの公用のために幕府に
よって整備された道であったが、参勤交代によって宿場をはじめとする街道筋に
大きな経済効果をもたらし、やがて庶民の寺社巡りや温泉旅行にも利用される
ようになり、ますます栄えていった~
めでたしめでたしのお話ですが、この「経済効果」を歓迎したのは庶民の側だけで
あり、幕府側はまったくの鈍感だったように思えます。
なにゆえなれば、幕府が公式学問とした「朱子学」はこうした思想で貫かれていた
からです。
「士農工商」→商売(経済)を生業とする者なんぞは、下の下で人間のクズだ。
「貴穀賤金」→米を扱うことは聖だが、銭を扱うなんぞは穢である。
その意味では「五街道」整備事業は、当の幕府がまったく意図しなかったにも拘わらず、
優れた「民生政策」としての一面を備えていたのかもしれませんねぇ。
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