ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

落胆編15/北海ニシン漁の盛衰を歌う

昨今の日本の漁業環境には大きな変化が見られるそうで、その原因のひとつに
考えられているのが“海の温暖化”のことです。
たとえば過去30年を比較した場合、なんでも海水温が2~4℃ほども高い海域がグンと

増えて、しかもこうした傾向がここ5年ほど続いているとされています。


そのため、近年では漁獲量の激変が見られるようになり、たとえば北海道ではサンマや
スルメイカなどが従来の1~2割程度まで落ち込む一方で、ブリなぞは6倍ほどになった
地域もあるようです。


では、こうした異変は21世紀に入ってからの、さらにここ10年ほどに限ったものかと
言えば実はそうでもありません。
たとえば、江戸末期から明治にピークを迎えたニシン漁にもそうした歴史があったのです。


北海道の西岸側に位置する小樽という地域は、慶長年間(1596~1610年)に松前藩の
大名が家臣に与える土地・知行地として開拓されました。
その後にはニシンを求めて南から移住する人が次第に増加するようになり、
安政年間(1854-1860年)以降になると、これら小漁民の中から建網を幾つか所有する
有力者も出始め、さらにその後の元治2(1865)年には、漁業中心の集落314戸が建ち、
これが小樽における組織形成の始まりとされています。


また、幕末から明治初年頃までは年産3万トン平均といわれていた小樽周辺のニシン漁も、
(明治20年代には少し落ちたものの)その後には新たな漁場の開拓や、さらには
増網と漁法・漁具の改良などを積極的に講じたことで、水揚げ高の方も乱高下を
繰り返しながら、明治30(1897)年には、ニシン漁獲量としては国内の最高の
水揚げ量「約98万トン」を記録したとされています。


 ニシン漁(小樽)


漁業には(も?)とんと疎い筆者ですが、幸運なことにこんな感想をみつけました。
~この数値がいかに驚異的であるかというと、明治30年といえば近代的な装備を備えた
 トロール船がまだなく、ヤン衆がソーラン節を歌いながら、人力と乏しい漁具・装備で
 水揚げをしていたことです~


なるほど、機械に頼ることなく人力のみで最高記録を打ち立てたということなら、
こりゃあ確かに凄いことだ。
こんなふうなイメージをぼんやり追っていたところ、別の文章が追い打ちをかけて
きました。


~当時、ニシンは3月末から5月にかけて沿岸の浅いところに大群で押し寄せ、
 メスが産卵し、オスが放精することで海が白く濁る
「群来(くき)」が見られ、
 活気に湧いていました~
ゲッ! ニシンの精子で海の色が変わったってか! そりゃ凄い! 
漁業にとんと疎い筆者にもその光景がバッチリと伝わってくるド迫力の説明です。


さらには、その「収益」についての説明もあり、こんな内容になっていました。
~「春告魚」(はるつげうお)という別名を持つニシンは、その名の通り春先に大量に
 群来て、その2、3カ月の量が
「一起し千両」といわれた~


この場合の「千両」とは、言葉を換えれば「メッチャな大金」という意味なのでしょう。
それが証拠に、~漁師は(2、3カ月の)ニシン漁だけで一年間生活できた~
とも説明されています。


ところがです。
~小樽のみならず北海道の歴史を拓くきっかけとなったニシン漁ですが、1950年代には
数が激減し、一時は「幻の魚」と呼ばれるほど漁獲量は大きく下がったのです~


そればかりではありません。
~オスが放精することで海が白く濁る「群来(くき)」は、1954年(昭和29年)、
 余市町から小樽市にかけての沿岸で確認されたのを最後に見られなくなりました~

つまり、この年1954年を境にして「その時代」は終わってしまったということです。


こうした「ニシン漁」の栄枯盛衰の歴史を、とんと短い歌詞の中に歌い込んだ
昭和歌謡曲があります。 昭和50(1975)年には発表された
「石狩挽歌」(作詞:なかにし礼/作曲:浜圭介/歌唱:北原ミレイ)がそれです。


一編の歴史ドラマを感じさせる名曲です。
ただ、少しばかり馴染みのない薄い言葉もその歌詞の中に登場していますので、
筆者と同様にこの方面に疎い方に向けて、今回はその辺りにも少し探りを入れてみる
ことにしてみました。


まず、歌詞にある/ヤン衆/とは、~ニシン漁のために雇われて働く人たちの呼称~
このように説明される人々のことであり、当時網元の番屋(漁夫の宿泊小屋)には
各地から集まったこうした「ヤン衆」が100人以上も寝泊まりしていたそうで、
そのため当時の番屋には煮炊きの匂いがあふれ、威勢のいい掛け声や歌が響いていたと
されています。


また/ソーラン節/とは、このように説明されています。
~北海道の民謡で、元はニシンの漁場での仕事歌~
ちなみに、その「ソーラン」については、こんな見解を見つけました。
~〈ヤーレソラソーラ〉と漁師たちを力づけ、囃したてる言葉とみてよい~


では、/破れた網は問い刺し網か/の「問い刺し網」って?
「問い刺し網」そのものズバリには行き当たらなかったものの、ひょっこりこんな
解説に遭遇しましたから、おそらくはこのあたりの意味合いになりそうです。


問い刺し→刺し網業者が、ニシンの回遊状況を見るために投網すること。
      (漁期中は可能な限り夕方に投網し、早朝に揚網する)
 〇刺し網→網目に頭をさし込ませたり体をからませたりさせて魚を捕獲する網。


続いては/沖を通るは笠戸丸/の「笠戸丸」について。
~明治時代後期の日露戦争から第二次世界大戦にかけて移民船や漁業工船などに
 使われた日本の鋼製貨客船で、終戦の年(1945年)に沈没~


なんと、戦後にその姿を見ることはなかったとの説明です。 
ところが、こんな補足がありました。
~1970年代に北洋を航行する笠戸丸の姿が歌謡曲の歌詞に使われたこともある~
ええッ、どんな歌謡曲に?
気負い込んで追ってみると、実はこの『石狩挽歌』のことでした。


 「石狩挽歌」(北原ミレイ)


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さらに/オモタイ岬のニシン御殿も/の部分。
~「オタモイ」とはアイヌ語で「砂浜のある入り江」のことと言い、
 昔はその断崖の上に立派な「ニシン御殿」が建っていた~


そして、その「ニシン御殿」はこんな説明になっています。
~第二次世界大戦前(1940年以前)に、北海道の日本海側に建てられた、
 網元や漁師たちが寝泊りした居宅兼漁業施設(番屋)の俗称~


なんだとぅ、「番屋」のことだってか。
筆者なんかは、その語感から完全に網元が住む「豪邸(御殿)」だとばかり
思い込んでいたゾ。


しかし、ちょっと待て、その後方には注記もある。
~ただし、広くニシン漁やその貿易による経済力を背景に建築されたものを
 指すこともある~
だったら、「番屋」のことなのか、それとも文字通りに「豪邸(御殿)」のこと
なのか、いったいどっちなんだ?


このあたりをひつこく深追いしてみると、ややこしいことにこんな説明まで登場して
くるのです。
~そのため「ニシン御殿」の定義はいまだ明確になっているわけではない~
あっちゃー!


ただ、そういう状況があるせいか、別の言葉を用いる場合もあるとされています。
~ニシン漁による繁栄により明治時代から昭和初期にかけて北海道日本海沿岸に
 建てられた「ニシン御殿」や「番屋建築」と呼ばれる大規模な木造建築を総称して
 
「鰊(ニシン)漁場建築」ということがある~


ということで、最後に/変わらぬものは古代文字/です。
意味的には、ニシン漁の在り方はすっかり変わってしまったが、古代文字だけは
変わることなく昔のままだ。
これくらいになりそうですが、ではその「古代文字」って何のことですか?


こんな説明になっています。
~小樽市・手宮洞窟に、その昔小樽近辺に住んでいたという先住民の書いたという
 古代文字が残っていて、それを指している~

ただし、それがホントに「古代文字」だと断定し切れるものでもないらしく、
別に「岩面刻画」などの呼び方もされているようです。


いずれにせよ、20世紀日本の「ニシン漁」の壮大な歴史を、短い歌詞の中に
大河ドラマ風に歌い込んでいる、ということだけでも、やはり「名曲」との評価に
落ち着くのは間違いなさそうです。


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