ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

ツッパリ編34/反骨将軍のアリバイ工作

自らが創業して以来、長きにわたってワンマン体制で臨んできた初代社長は、
二代目以降の後継社長について、こんな腹積りを持っていたようです。
~弱肉強食の時代も終わってのだから、ワシのようなワンマン経営はもう必要が
 なくなった。 
 だからして、次代以降の社長たちは経営実務を重役連中の合議に任せ、その結果を
 黙って決済するだけにせよ。  ええか、これが会社を永続繁栄させる秘訣だぞ~


実際その後の何代かの社長たちはこの「社是」を守り続けました。
ところが、そのうちにいささかの「反骨社長」が登場したのです。
~そんなことがあるものか! ガチガチに頭が古くて固い重役連中よりは、オレの方が
 よっほど冴えているゼ!
 つまり、
オレの経営方針を徹底させた方が断然会社のタメになるってことだ!~


しかしながら、こうしたスタイルはトップが目だって先頭に立つ形になるために、
社内からの反発が予想されるのは当然す。 案の定、
~そうした経営方針は、今は亡き創業者の御遺訓にモロに背いていますぞ~


ただ、そうした声に大人しく耳を傾けるような新社長ではありませんでした。
なにしろ「反骨社長」ですからねぇ。
では、新社長はどうしたのか? なんと、こんな機構改革を行ったのです。
~「社長秘書」を新設するから、重役連中の意見は今後ここを通すようにしなさい~


つまり、こういう方法です。
重役連中が合議・合意した案件が上がってきたら、まずはこの新設「社長秘書」が
受け、それを社長本人が気に入らないと判断される場合は、社長になり代わる形で
「小首を傾げる」わけです。
~この案で、はたして社長は納得されるでしょうかねぇ?~


早い話が、こうした案件は重役たちに差し戻されるということです。
こうすることで、重役たちの提案は、次第に社長の同意が得られるような内容に
変化していき、結果として社長の思い通りの経営方針が貫かれるわけです。 
メデタシ、メデタシ!


さて、群を抜いて勘の悪い人は別として、それ以外の人並み程度に勘の悪い人なら
既にお気づきだと思いますが、この会社の名は「江戸幕府」であり、創業者とは
初代将軍・徳川家康(在任1603-1605年)」のこと、さらに言うなら重役連中とは
その時の幕府老中たちのことです。
 

 第五代将軍・徳川綱吉


また「反骨社長」とは五代将軍・徳川綱吉(在任1680-1709年)を指し、
「社長秘書」とは、この折に新設された役職「側用人」に就いた方々のことを指して
います。 ちなみにその「側用人」とはこんな説明になっています。


~将軍に近く仕えて、将軍の命を老中に伝達し、また老中の上申を将軍に取り次ぐ
 要職(御側御用人)。
 その格式は老中に準ずるが、その職務上の権力は老中をしのいだ。
 定員は一名(欠くこともある)で一万石以上の譜代大名が任命された~


さて、ここまでは割合に知られたことですが、でも、こんな非常に逆説的な疑問が
涌いてきませんか?
~将軍・綱吉は「側用人を置く」という「重要政策」を、つまり「側用人なし」の
 段階ですでに実現させていることになる。 
 だったら、そのように大きな実力を備えた将軍・綱吉に、そもそも「側用人」
 なんて取次役?を新設する必要はなかったのではないか?~


なにせ綱吉は「将軍」なのですから、家臣である老中にも遠慮する必要がないはずです。
それでも「側用人」を置いたということですから、そこには大きな事情があったと

想像されます。  
では、その事情とは一体なにだったのか?


さて、ここで問題になってくるのが「創業者の強い意向」という言葉です。
創業者・家康は、こうした意向をハッキリ示していました。
~次代以降の社長たちは、経営実務を重役連中の合議に任せ、その結果を黙って
 決済するだけにせよ~ 


かつて家康は、織田信長(1534-1582年)の家臣の立場にあった明智光秀
(1528-1582年)が主君の信長をためらうことなく討った姿「本能寺の変」(1582年)
を、間近で目撃しました。
そればかりか、一歩間違えば己の命さえ危ない状況にまで追い込まれた経験まで
味わっています。


ですから、その家康がこう考えるのは当然の成り行きです。
~江戸幕府に、このような「明智光秀」(謀反)が生まれることがあっては
 決してならぬ~
そうした思いから、家康が幕府の公式学問として取り入れた思想は「朱子学」でした。


えぇ、「朱子学」という思想?宗教?は、「孝」(親に孝行)や「忠」(主君に尽くす)
を最大の徳目としていますから、これを武士の教養の中心に据えるなら、あのような
「明智光秀」が登場することは二度となくなるはずだという判断です。


しかし、この綱吉の場合のように、自ら意志を直接的に「政策」として実現させる
ことは、この「孝」が大きな課題になりました。
なぜなら、この場合の「親孝行」とは親に対する孝行ということでばかりでなく、
その親代々である「御先祖様孝行」も含まれているからです。


言い換えれば「祖法大事」ということであり、言葉を換えるなら、ご先祖様の行動を
否定・非難しないだけでなく、その言い付けには素直に従うべきということです。
そうすると、「綱吉の直接政治」という体制は、明確に「祖法」(旧来のやり方)を
無視したことになってしまいますし、なにより「神君(家康)の御意向」に逆らう
ことにもなってしまうのです。


これはとてもマズい。
そこで、そうした支障を解決する方策をとして、新たに設けられたのが、この「側用人」
のシステムだったのです。


     

      徳川家康 / 高杉晋作


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考えてみれば、これは画期的な着想でした。
なぜなら、「側用人なし」という体制だと、綱吉の意志が直接的に「政策」として
反映されたことになり、これでは「神君の御意向」(祖法大事)を無視した
悪事と
なってしまいます。


また時を経て、すでに武士の間にも広まった「朱子学」思想から見ても、
「孝や忠の軽視」ということになり、これでは家臣の同意を得ることの困難で
やっぱりマズい。


ところが「側用人あり」の場合だと、そのような理屈にはなりません。
なぜなら、形の上ではあくまでも「老中たちが上奏」してきた案件を最終的に
「将軍である綱吉が決済した」という形になるからです。


また仮に「老中上奏」の案件がはねられたとしても、システムの上では、はねた張本人は
「側用人」であって「将軍」ではないということになりますから、つまり将軍自身は
「神君の御意向」(祖法大事)をバッチリ遵守していることになるのです。


もう少し突っ込めば、
~決して「神君の御意向」(祖法大事)に背いたものではありませんよ~
こうした「アリバイ工作」?のために設けられた役職が、この「側用人」だといえる
のかもしれません。
「必要は発明の母」と言いますが、実にウマい方法を思いついたものです。


もちろん、この着想には綱吉のみならず、そのブレーンも関わっていたことでしょう。
しかしながら、少なくともそのような知恵を出せるブレーンを迎えたこと自体は
綱吉の実力であり功績だということになりそうです。


ただ、朱子学が浸透したこの時代には、「反骨将軍」でさえ、親不孝はもちろんのこと
「ご先祖不孝」?すらできなかったというエピソードは記憶に留めておいて
いいのかもしれません。


ちなみに、綱吉の「親孝行」ぶりは、生母・桂昌院(1627-1705年)に女性最高位の
従一位の官位と、藤原光子(または宗子)という名前を賜るべく、尽力奔走した
事実からもうかがえるところです。


要するに、「朱子学」思想は、江戸時代の武士階級にはしっかり浸透していたという
ことになりそうです。
その影響はその後も長く続き、幕末の騒乱期にすら及んでいたことは、長州藩・
高杉晋作(1839-1867年)のこの言葉からも窺えます。
~朱子学じゃァ、戦が出来ぬから~


つまり、
~新しい時代を創ろうというこの時に、「朱子学」の古い価値観を持ち出して、それに
 拘っていたのではお話にならないッ~

この頃になってようやくのこと、「朱子学」から脱皮する発想・行動が生まれたと
いうことになりそうです。


ということであれば、この高杉晋作より160年ほども早い時代の人物でありながら、
既に果敢に脱「朱子学」に挑んでいた将軍綱吉の「反骨」ぶりと、その「明晰」ぶりは
特筆に値するものなのかもしれませんねぇ。


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