ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

災難編21/伝馬は次の宿場までを継ぐ

少し以前はそうでもなかったのに、最近やたらと耳にするようになった言葉の
ひとつに「インバウンド」(Inbound)があります。
その意味は、~外国人が訪れてくる旅行のこと~になるのだそうです。


だったら、わざわざカタカナ用語にしなくたって、それを言い表すのにふさわしい
日本語もあろうになぁ。
こんな錆びついた感想を抱いた筆者の頭には、たとえば「訪日外国人旅行」とか、
あるいは「訪日旅行」とかという日本語が浮かびます。
しかしまあ、それらとは微妙にニュアンスが異なっているのかもしれません。


ついでにおさらいをしておくと、これとは反対に日本から外国へ出かける旅行は
「アウトバウンド」(Outbound)、日本語なら「海外旅行」というほどの言葉に
なるようです。


コロナ禍にあった頃の日本は、このインバウンドが激減したとされています。
ところが昨今ではそれが元に戻りつつあるようで、そうしたことは熱田神宮を
お散歩コースの一つをとしている筆者自身の実生活からも感じられます。


 熱田神宮 /


コロナ以前の熱田神宮は、日本人参拝者より中国人観光客の方が遥かに多かった。
そんな印象でした。
ところが、コロナ禍にあっては、そうした姿をパッタリ見かけなくなったのです。 
そしてお話は二転三転し、本年に入ってからは、またそういう姿を少なからず

見かけるようなったというわけです。


ええ、先の言葉を借りれば、
~最近は熱田神宮でも、中国人「インバウンド」が再び増加している~
ということです。


待て待て、見かけにそれほど違いはないのだから、ひょっとしたら彼らは日本人
観光客かもしれんがや。
そのような疑いを抱く慎重な方もありましょうが、いくら外国語オンチの筆者とは
いっても、日本語と中国語の語感の違いくらいは聞き分けできますから、その点は
どうぞご安心ください。


そんなことから、唐突にひょいと思い出したことがあります。
本年、詳しく言えば本年令和5年1月4日(水曜日)のことになりますが、その始発から、
名古屋市地下鉄の一部駅名が以下のように変更されたのです。


駅名変更はこの他にもありましたが、今回のテーマに関する部分だけを
切り取りしてみると、
〇旧・神宮西→熱田神宮西
〇旧・伝馬町→熱田神宮伝馬町
〇旧・市役所→名古屋城


露骨な言い方が許されるなら、市民が聞き慣れてきた駅名を熱田神宮とか名古屋城など、
人気の観光スポットの名称を冠することで、インバウンドの皆様方にも分かりやすく、
またその訪問しやすくしたということです。


ということで、老人の繰り言のように結構長いお話になってしまいましたが、
ここまでがマクラで、ここから先が今回の本文ということになります。
えらく遠回りさせちまって申し訳ありませんねえ。


実は今回、地下鉄新駅名「熱田神宮伝馬町」の中にある「伝馬」を取り上げて
みたかったのです。
「伝馬」の地名は、何も筆者の生息地・熱田だけのものではありません。


なぜなら、こんな説明になっているのですから、あちらこちらに点在していても
至極当然なことなのです。
~(伝馬とは)大化改新(645年)により国府と郡家を連絡するため、道中の
 各駅・宿などに備えて公用輸送にあてた馬~


連絡のための馬だから「伝馬」なのかぁ、メッチャ分かりやすい名称だ。
ところが、グンと時代が下って江戸時代ともなると、それがこちらの意味合いで
用いられるようになります。


~公用の書札、荷物の逓送のため、徳川家康は1601年(慶長6)に東海道各宿に
 伝馬制度を設定した。 
 伝馬役には馬役と人足役とがあり、東海道およびその他の五街道にもおのおの
 規定ができた~


ですから、街道沿いに宿場を設け、公用の旅人や物資の輸送は無料で次の宿駅まで
送り継ぐというのがこの宿駅伝馬制度であり、輸送のために必要な人馬は宿場が
提供した、ということになります。


そして、こうも説明されています。
~輸送の範囲は原則として隣接する宿場までで、これを越えて運ぶことは禁止されて
 いた。 そのため、人足と馬もそこで交替することになり、隣の宿場に着くと
 荷物を新しい馬に積み替えることになる~


なるほど、「目的地までひとっ飛び」という方法は許されていなかったわけか。
さらに具体的に、
~東海道には江戸から京都までの間に53の宿場があったので、江戸から京都まで
 運ぶ場合、53回の継ぎ替えをすることになり、そのため俗に「五十三次」と
 呼ばれるようになった~


ああ、さよか。
「東海道五十三次」の「次」って、「継ぎ」って意味合いだったのか。


 

広重『東海道五十三次之内 庄野 人馬宿継之図』/ 現代の物流システム


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そして、その続きです。
~公用の書状や荷物を、出発地から目的地まで同じ人や馬が運ぶのではなく、
 宿場ごとに人馬を交替して運ぶ制度を「伝馬制」といいました。
 そのために、幕府の公用をこなすために宿駅で馬を乗り継ぐ、その馬のことを
 「伝馬」といいました~

今度は、ばっちり「伝馬」についての説明もされています。


ただし、「交代制」ということですから、各宿場は荷物を次の宿場まで届けるために、
必要な人馬を用意しておかなければなりませんでした。
その伝馬は、当初36匹(頭)と定められていたものの、その後、交通や物流の増加に
伴い、100匹(頭)にまで増えたとされています。


こうした人馬を負担するのは地元宿場の役目だったようです。
しかし、役目を負わされる方は、その分仕事や責任が増えるわけですからたまりません。
では、この「伝馬」は地元宿場にとって、こうしたデメリットだけだったのか。
実は、そんなわけでもなかったようです。


どんな時代であろうと、デメリットしかないようなシステムが続くはずもありません。
それなりの特典も用意されていたのです。
~その代わりに、宿場の人々は屋敷地に課税される年貢が免除されたり、
 旅人の宿泊や荷物を運んで収入を得ることができるという特典があった~
なぁるほど、持ちつ持たれつのよく練れたシステムだったようです。


では、その「伝馬」を利用するのには、どのくらいの費用が必要だったの?
その問いに対しては、こう説明されています。
~伝馬を使用する際には無賃か、あるいは御定賃銭のため、宿側にはその代償として
 各種の保護が与えられたが、一部民間物資の輸送も営業として認めた~


ここにある「御定(おさだめ)賃銭」というのがよく分からないので、さらに深追い
してみると、~江戸時代における街道の人馬賃銭の一種~
ええ、それは判っています。 すると、続いて
~人馬賃銭は大別して無賃、御定賃銭、相対賃銭に分けられるが、御定賃銭は
 幕府の定めた公定賃銭で、幕府領のみならず大名領の街道にも及んだ。
 各宿駅の高札に前後の宿駅までの御定賃銭が示された~


なるほど「公定価格/明朗会計」だったということか。 ところが、
~街道通行者一般に適用されるべき賃銭であったが、通行者と宿と相対で決める
 相対賃銭が認められていたので、御定賃銭はしだいに低廉となり、公用通行者の
 一種の特権となった~

つまり、融通の余地も、それなりにあったということかもしれません。


~やがて「参勤交代」制度の確立や物流の発展で交通量が増加すると、宿場で
 用意する人馬だけでは足りず、近隣地域から補充するようになります。
 この制度を
「助郷」(すけごう)といい、助郷に指定された地域は労働力を
 奪われ、耕作に支障をきたしました~


基幹産業である農業に人手不足を発生させてしまうようになったってか。
~助郷の負担に耐えかねた人々が一揆を起こすことがあったほどで、幕末の頃には
 伝馬制度は限界を迎えていたのです~


なるほど、この「伝馬システム」にも経年劣化が見られるようになったわけか。
仏教でいう「諸行無常」だな。 そして、
~明治維新により幕藩体制が崩壊すると、明治新政府は段階的に伝馬制度を廃止し、
 民間の陸運会社を設立して輸送業にあたらせました~


ということなら、この時期こそが日本における「近代物流元年」と言えるのかも
しれませんねぇ。


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