ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

事始め編30/海外爆買いツアーの先駆者たち

何につけそれなりの「イメージ」というものが付きまとうもので、時にはその
イメージによって、逆に真実の方を見誤ってしまうことさえあり得ます。
たとえば、平安時代に唐に渡った二人の留学僧、最澄(767-822年)さんと
空海(774-835年)さんについてもそうしたことは無きにしもあらず。
ちなみに、年齢を計算してみると最澄さんの方が7歳ほどアニさんということに

なります。


後に、それぞれ伝教大師(最澄)、弘法大師(空海)と諡号されていますから、
当時から両人ともが高僧だったかと思えば、意に反してこんな説明が。
~(空海は)延暦23年(803年)、中国語の能力の高さや医薬の知識面での推薦も
 活かし、遣唐使の長期留学僧として唐に渡る~


これが、第18次遣唐使一行ということになりますが、続く説明が、
~(この一行には)すでに天皇の護持僧である内供奉十禅師の一人に任命されて、
 当時の仏教界に確固たる地位を築いていた
最澄もいたが、空はまったく無名の
 一沙門(しゃもん/僧侶)だった~


     

最澄さん(伝教大師) / 空海さん(弘法大師


そして、この遣唐使の折には、どうにかこうにか中国へ辿りついたのは、全4船の内
2船だけで、しかも空海さんが乗った船は、アクシデントか絡みの「漂着」スタイル
だったようです。 まさに、命懸けです。
ひょっとしたら、「民間宇宙旅行事業」が叫ばれている現代の「宇宙旅行」より、
当時における日本海横断はさらに困難で危険な行動だったかもしれません。


それはともかく、さて、このお二人の僧に対して現代日本人が持つメージは、まあ
平均的に、こんなところではないでしょうか。 
~学究肌・頭脳明晰・謹厳実直~
おそらくは、それは間違ってはいないのでしょう。


しかし、だからと言って唐におけるお二人の留学生活もまた勉学・研究に明け暮れて
いたと考えるなら、こちらの方は案外見込み違いなのかも知れません。


というのは、筆者なぞはまずその「留学期間」を知ってちょっとびっくりしたからです。
昔の日本と中国の二国間の移動に費やす時間、費用、さらには海を渡る危険度などを
思うと、一旦中国に渡ったなら、まあ少なくとも五年くらいは、その地に腰を据えて
「留学生活」に励んだものと、漠然とそのように思い込んでいたのです。


いえね、筆者以外の皆さんは既にそのことをご承知だったのかも知れませんが、
実際の期間は、筆者が抱いていたイメージより、ずっと短かったのです。
では、その「留学期間」はいったいどのくらいだったの?


道中のトラブルや行事などを除いた実質期間で言うなら、実はこんな数字になります。
~最澄さんで10ケ月程度、空海さんでも12ケ月程度~
ゲッ、いくらなんでも、これでは短すぎやしませんか。


こんな短い期間内で、伝えられるような「実績」、すなわち天台宗・禅宗・密教など
広範囲に渡るすべてをホントにマスターできたのだろうか? 
いかに天才的頭脳の持ち主たちであろうと、これだけのボリュームを最大十二ケ月の
うちのではモノにしてしまうのは、さすがに無理ではなかったか。
まあ常識的に考えれば、こうなります。


その状況証拠があります。 
それは、「密教」関連だけは「もう少し勉強が必要だ」との自覚もあったのか、帰国後の
最澄さんが、その分野に強い空海さんに「参考文献」の拝借をお願いしていることです。
本当にマスターしたとの自信があったら、こんな行動を取るはずはありません。
もちろん、空海さんの方もそれには協力を惜しみませんでした。


これだけを聞くと、ヘェ~、この僅か二ヶ月の違いがお二人の「密教」マスター度に
差をつけてしまったのか・・・と思いかねませんが、どうもそれだけではないようです。
というのは、実は、この当時の「唐留学僧」には勉学・研究の他にも大きな「使命」が
あったからです。


もちろん、勉学・研究を軽視していたわけではありません。
それを第一義としていたのは当然ですが、実は負けず劣らず重視されたのが、なんと
「お買い物」だったのです。
ただし、「お買い物」と聞いてバーゲン販売や物産展を連想するなら、最澄さん・
空海さんにちょっとばかり失礼かもしれません。


その主だったモノは薬・仏具・文房具類でした。
また、留学「僧」がお買い物をするのですから、その中には当然「経典」も含まれます。
しかも、それがまた膨大な数でした。


 

     遣唐使船・航海経路 / 遣唐使船


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多分それは、バブル時代の日本人がそうだったように「買い漁る」ような、あるいは
一時期の来日中国人観光客が見せていた
「爆買い」状態だったと想像されます。
なんでそんなことが言えるのかといえば、当時留学僧にはハンパでない(現在の感覚

だと数千万円・数億円?の)「資金カンパ」が集まったからです。


こうした状況を少し意地悪く眺めてみるなら、カンパをした人たちは留学僧の勉学
そのものより、自分たちが頼んだ「お買い物」品を無事運搬してくれることの方に、
より大きな期待を寄せていたのかもしれません。
多分、それらが手に入れば相当な「価値」を評価され、今風なら自家用ジェットを
所有したほどの、一種のステータス・シンボルとして珍重されたということ
なのでしょう。


ですから、この時代の留学僧とは、現代における「海外爆買いツアー」の先駆者たちと
言えるのかもしれません。
しかし、そうなると、留学僧自身もまた、留学期間が短いだけにこんな考え方に
ならざるを得ません。


~お買い物の合間を縫っての勉強なんて、とても身が入らないゾ。
 そんなことなら、こちらに滞在中は、ともかく研究資料を盛り沢山に買い込むことに

 専念し、本来の習得勉強は帰国後にやれば良いかもか?~


だから、帰国後の最澄さんも例外でなく、「本来の勉強」に俄然張り切ったのでは?
このように考えると、先ほどの最澄さんと空海さんのやり取りも不自然ではなくなります。
自分の「お買い物リスト」にはなかった経典が、空海さんの「お買い物リスト」に
含まれていたことをひょっこり思い出した最澄さんの方から空海さんに
「ちょっと見せてよ!」とばかりにお願いしたという構図です。


事実、こうしたスタイルでの最澄さんと空海さんの交流はしばらく続いたようです。 
ただ、間の悪いことにそのテーマが「密教」だったために、この後お二人の間に
ギクシャクが生じることになってしまいます。


「密教」だと、なぜ間が悪いの?
とにかく文献を参考にして本格的に習得しようとする最澄さんの姿勢に対して、
早い話が、空海さんは「密教とは文献だけではマスターできるものではありませんヨ」
との立場です。


なんだとぉ、先輩僧の最澄さんに対する、空海さんの態度はちっとばかりエラそぶって
いるのではないかえ?
多少長く留学できたことで密教をマスターできたのであれば、その教えを最澄さんにも
惜しみなく無条件で開放すべきだろうに!


それは下衆(ゲス)の勘繰りというもので、事実はそうではありません。
空海さんの言いたかったことは、要するに文字では完全に伝わらないのが「密教」
なのだから、どうしても極めたいと思うのなら、本や文字に頼るのではなく、しっかり
確かな師匠について修行を実践するよりほかに方法はありませんヨ、と言っている
わけです。


ところが、伝え方が悪かったのか、受け止め方が悪かったのか、あるいはその両方が
重なったものか、それとも偶然にお二人ともが多忙になってしまったものかは
分かりませんが、ともかくこの後(813年のことだとされていますが、)においての
お二人の行き来がなくなってしまったのは事実のようです。


こうして見ると、留学の期間が多少長く、また「その他大勢」の立場だった空海さんは
「お買い物」の時間には恵まれ、片や最澄さんの方は留学期間が短く、その上
国家期待の「大エース」の立場であった分、多忙を極め、「お買い物」のための充分な
時間が取れなかった、ということかもしれません。


えぇ、そういうことなら最澄さんが「お願い」する立場になり、一方の空海さんが
「お願いされる」の立場に、つまりそれまでの「大エース」と「その他大勢」の立場が
入れ替わった理由は「お買い物」にあったことになるのかもしれません。
いずれにせよ、この当時の留学僧は「爆買い」というスタイルからは逃れようが
なかったようですねぇ。


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