微妙編18/謎っぽいケは歴史にも
天下平定を目前にした織田信長(1534-1582年)が家臣・明智光秀(1528?-1582年)
の謀反に倒れた後の天下を掌握したのはこれまた信長の家臣であった羽柴秀吉
(豊臣/1537-1598年)でした。
そして、さらにその秀吉が死を迎えたことによってその後の豊臣政権には大きな
ヒビが入ることになったのです。
秀吉の遺児・秀頼(1593-1615年)を盟主として豊臣政権の維持を計ろうとする
政権幹部の一人・石田三成(1560-1600年)と、同じ政権の中枢にありながら
自らの天下取りを目論む徳川家康(1543-1616年)の対立がそれです。
そして実際、両者の対立は武力抗争、すなわち戦争へと発展していきました。
それが天下分け目の戦と呼ばれた「関ケ原の戦い」(1600年)で、これで敗者と
なった石田三成は敗走死に至り、一方の勝者・徳川家康はこの三年後に征夷大将軍と
なって江戸幕府を開くところとなったのです。
こうした経緯はドラマなどでも繰り返し描かれているせいもあってか、割合よく
知られています。
それはいいとしても、さてこの「関ケ原の戦い」について、つまらないことながら
筆者には少し気になることがあります。
それは「関ケ原の戦い」の「関ケ原」部分をごくごく素直に読むなら「せきけはら」
となりそうなのに、それをなぜ「せきがはら」と読ませるのかということです。
しかし、それについて筆者が深く考えたところで時間のムダに決まっていますから、
それはスッパリ諦めて早速のことカンニングに及ぶことになります。
もっとも、こうした手抜きを繰り返すことで自身の頭脳がさらに劣化することに
気が付いていないわけではありません。
しかし、何しろ思考に努力を費やすよりはカンニングの方がゼッタイに楽チン
ですから、ついついこの運びになってしまうのです。
ナマカワ者の所業ですが、悪しからずご了承ください。
さて、その「ケ」という一文字について探ってみると、Wikipediaではこのくらいの
説明になっています。
~片仮名の「ケ」を小書きにしたように見える字体の文字のひとつ。
主に助数詞や連体助詞「が」の用途として使用される。
数助詞や助詞「が」の用途として使用される場合は、「か」、「が」、「こ」と
発音される。 また、表記としては大きな「ケ」も使われる~
要するに、小書きでも大書きでも使われる「ケ」は「文字」であり、
その読みには「か/が/こ」があると説明されているわけです。
ところが、そう説明されていても、その実例が思い当たらないことにはイマイチ
自分の腹に落ちません。
そこで、あれこれ探っていると、この説明にピッタリ合う例を見つけました。
ちょっとしたお手柄で、自画自賛です。
それはともかく、「か」と読む例はたとえば「三ケ日みかん」がそれで、この場合の
「三ケ日」は地名であり「みっかび」と読みますから、「ケ=か」の例にばっちり
当てはまっていることになります。
蛇足ですが、お正月のつまり一月の一日二日三日を指す「さんがにち」はよく似た
字面ではあるものの「正月三が日」と書くのが正しいとされており、「正月三ケ日」
ではペケのようです。
「みっかび」と混同しないためのルールでしょうか。
次に「が」と読む例。
これは、先から取り上げている「関ケ原の戦い」がまさしくそれで、これを
「せきかはら」とか「せきこはら」、あるいは「せきけはら」と読む人はまず
いないと思われます。
さらに同様の例を歴史用語の範疇で探すなら、「本能寺の変」(1582年)の後、
羽柴秀吉が明智光秀を討った「山崎の戦い」の際に、筒井順慶(1549―1584年)が
戦況の趨勢をみて去就を決したことから、日和見的態度をいうようになったとされる
言葉「洞ヶ峠」の「ほらがとうげ」もその通りですし、さらに昔のことなら、国の
特別史跡に指定された佐賀県の「吉野ヶ里遺跡」も「ケ=が」の音になっています。
ではでは、ということで最後になりましたが、「こ」と発音される例は?
これも見つけました。
たとえば、「りんご三ケ」というように、モノの数をカウントする際に用いられる
「ケ」がその一例で、この場合は個数の単位「個/箇」を表し、その読み方も
「こ」なのです。
頭がクシャクシャになってきましたが、その上にさらにはこんな説明も見つけて
しまいました。
~助数詞や連体助詞「が」の用途として使用される場合の「ヶ(ケ)」は、
片仮名の「ケ」とは由来を別にし、「箇」または「个」の略字とされる。
「个」は「箇」の竹かんむり部分、あるいは「介」の略字から来ていると
考えられている~
グエッ、えらくマニアックな説明になってきたゾ。
しかし冷静になってみれば、要するに「ケ」のルーツは漢字「箇」の竹かんむり部分に
突き当たるということを言っているに過ぎないようです。
それならそれで一件落着。
そう思い込んだところでこんな説明にも遭遇し、まさしく堂々巡りの有様を呈して
しまいました。
~小書きの「ヶ」はカタカナの「ケ」ではなく、文字でもない~
なんだとぉ、文字でもないのなら、ほんなら何なのだ?
そう突っ込んでみると、
~実はこの小書きの「ヶ」はカタカナの「ケ」のように書くが、「ケ」ではなく、
一種の符号のようなものであり、「ヶ」を小さく書かずに「ケ」と普通の大きさで
書くこともある~
なんだとぉ、小書きでも大書きでもどっちでもええってか。
しかも「一種の符号のようなもの」ということなら、
~片仮名の「ケ」を小書きにしたように見える字体の「文字」のひとつ~
この説明は一体何を言っているのだ。
言語明瞭・意味不明瞭とはこのことだ。
佐賀県「吉野ヶ里遺跡」 / 会津若松「鶴ヶ城」
ということで、いささか堂々巡りの按配になってしまいましたが、折角ですから
今回はその「ケ=が」となっている歴史用語をいくつか探してみることにしました。
普段はあまり意識していませんでしたが、実際には結構たくさんあるようです。
まず、「賤ケ岳の戦い」(しずがたけのたたかい/1583年)。
~織田信長の死後において、賤ケ岳(現:滋賀県長浜市)付近で起きた羽柴秀吉と
柴田勝家(1522-1583年)の戦いで、織田勢力を二分する激しいものとなり、
これに勝利した秀吉は信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩が
ひらかれた~
この戦いで、信長後の権力は勝家にではなく秀吉に移ったということです。
おまけですが、この戦いで活躍した人物を指す「賤ケ岳七本槍」という言葉も
あります。
よほどの歴史マニアでないことにはその全員の名を挙げることはできないでしょう
から、親切ついでにそれもカンニングしておきました。
〇加藤清正 〇福島正則 〇加藤嘉明 〇平野長泰 〇脇坂安治
〇糟屋武則 〇片桐且元 の七人です。
そういえば「鶴ヶ城」、この名称もばっちり「ケ=が」のパターンになっています。
~戊辰戦争(1868-1869年)の一つである会津戦争(会津城籠城戦)にて、
新政府軍に包囲され砲撃を受けた、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は1か月間
籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して開城(1868年)した~
その時の「砲弾を受け損傷した城」の写真はよく知られていますが、
~地元では鶴ヶ城と呼ばれるが、同名の城が他にあるため、地元以外では
会津若松城と呼ばれることが多く、国の史跡としては若松城跡(わかまつじょうあと)
の名称で指定されている~
へぇ、知らなかったなぁ、「鶴ヶ城」って他の土地にもあるのか。
で、またまたカンニングに及ぶと、
〇上総国にあった城/千葉県いすみ市
〇遠江国にあった城/静岡県浜松市
〇紀伊国にあった城/和歌山県田辺市
〇豊後国にあった城/大分県大分市
〇若松城の別名/福島県会津若松市
〇佐伯城の別名/大分県佐伯市
〇松森城の別名/宮城県仙台市
そうした中でも、鶴ヶ城=会津若松のイメージが強いのは、歌謡曲「花の白虎隊」
(作詞:佐伯孝夫 作曲:吉田正/1961年)の歌詞によるものかもしれません。
~会津若松鶴ヶ城/二十日篭りて 城落ちぬ/血潮にまみれた その旗は/
あわれ 少年白虎隊/~
ということで、「ケ」と書き、それを「か/が/こ」と発音する歴史用語の周辺を
目一杯のカンニングで散策、いや徘徊してみた次第です。
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