誤算編23/初物三冠男の千年祟り
日本史上初めての武家政権である鎌倉幕府が誕生する、そのおよそ250年前のこと、
武士という存在はすでに台頭し、その勢力をさらに広げる勢いにありました。
その草分け的存在ともされているのが平将門(生年不肖-940年)です。
そしてこの方は、併せて幾つかの「日本初」のタイトル?も保持しているのです。
では、どんな「日本初」を?
お金はありませんが、ヒマは充分に持ち合わせていますから、ちょっと覗いてみる
ことにしましょう。
すると、こんなことを言われていることに気が付きます。
気が付かないとしたら、それは「うっかり八兵衛」ということですから、意地でも
気が付いてくださいね。
さて、まず第一には、日本刀の発明者?と言われていることです。
ええっ、そうなの?
でもよく思い起こすなら、もっとずっと昔からあったような気がするぞ。
ええ、そうではありましょうが、ここではこんなことを言っているのです。
それまでの反りのない従来型の直刀から反りを備えた湾刀(わんとう)へ
移行し始めた時期と、この平将門が活動していた時代とがちょうど重なっている、
ということです。
馬上の戦いにおいて刀を振り回すには、反りがなくまっすくな「直刀」よりも
反りのある「湾刀」の方が、断然快適便利?とされています。
馬上戦闘が未経験の筆者には、この辺の実感は出来ないものの、理屈から考えても、
おそらくはその通りなのでしょう。
とはいうものの、では、この発明がズバリ将門さんご本人によるものかといえば、
多少微妙な印象がしないわけでもありません。
なぜなら、何かにつけ有名人に付会(こじつけて関係をつける)することは、
歴史においては決して珍しいことではないからです。
まあ、多くの戦を経験し、しかも知名度も高い将門サンをその発明者だとした方が、
分かりやすいし、その上に話にも華もあるということなのでしょう。
二つ目もあります。
朝廷からの「分離独立」?運動、つまり「武士の持ちたる国」の実現を目指したことが
挙げられます。
大昔はともかくとしても、天皇の権力が安定した後になって、こうした朝廷からの
「分離独立路線」を打ち出し、その実現に向けて実際に行動を起こしたのは、
それこそこの将門が「初めて」のことでした。
なにせ、武家政権誕生の250年も前のことですからねぇ。
将門は、自ら「桓武天皇5世孫」を名乗ることで、血統の正当性をアピールしました。
しかし、いきなり「5世孫」って言われたって、まず大抵の人にはピンとくるものでは
ありません。
そこで、ちょいとおさらいしておくとこうなります。
基準にする「自分」を0世とした場合、その子孫は以下のようになっていきます。
「1世」→子/「二世」→孫/「三世」→曽孫/「四世」→玄孫/「五世」→来孫。
つまり「5世孫」とは、三世・曽孫の、そのまた孫ということになりますから、
血縁関係としては結構遠い印象になります。
ところが、そんな薄い血縁でありながら、将門はこう名乗ったわけです。
~西の国が従来通りの「天皇」を戴くのであれば、オレは新しい東の国の
「ニュー天皇=新皇」だゼ~
しかし、天皇の御稜威を根底から否定するがごときのこうした将門の主張・行動は、
朝廷側にしてみれば、まさに「極悪人」の所業にほかなりません。
そこで、朝廷側としてもこれを厳しく懲らしめておく必要を覚え、実際そうしました。
朝廷のセリフ・・・なめたらいかんぜよ!
案の定、将門の「新皇」は即位後わずか二ヶ月足らずで、実にあっけなく終焉を
迎えたのです。
でも、なぜそんなことに?
陣頭指揮を採るべく、馬上で奮戦していた将門の周辺で突風が舞ったのです。
それに驚いた馬が突然棹立ちになり・・・そこへ矢が飛んできて、運悪く
なんと額に命中し、将門はあえなく戦死。
将門のオデコがよほど広かったことも考えられますが、それにしても、よりによって
額に命中とは不運の極みです。
そして、戦死した将門の首は都へ運ばれ、それまでは見ることがなかった、
聞くもおぞましい「さらし首」(獄門)という刑に処されたのです。
これが将門の三つ目の「日本初」です。
将門戦死 / 将門獄門
根っから穢れを嫌う朝廷が、未だ曾てなかった残酷な刑をもって対処したのですから、
将門による「分離独立」闘争には、よほど腹に据えかねるものがあったということ
なのでしょう。
ところが意外なことに、残酷の極みとも言いたくなるようなこの「獄門刑」自体は、
以後の歴史においては割合ポピュラー?な刑として定着し、武士の時代は
もちろんのこと、「文明開化」が謳われた明治時代に入ってさえ続いていました。
ようやくのこと廃止されたのが1897年(明治12年)のことですから、
将門に始まり、実質950年以上に渡って、長らく日本人の皆様に親しまれた?刑だとも
いえるのかもしれません。
(だったら、これを「伝統芸」ならぬ「伝統刑」?と呼ぶべきでしょうか?)
さて、その「獄門」にされた将門とてやられっ放しでおとなしくしていたわけでは
ありません。
今度は死せる将門が・・・なめたらいかんぜよ!
この怨念たるや半端なものではなく、20世紀に至ってさえ収まる気配を見せることは
なかったのです。
たとえば、1923年(大正12年)のこと、東京のド真ん中・大手町にある
「平将門の首塚」を壊して、当時の大蔵省(現財務省)の仮庁舎を建てる計画が
進められましたが、ドッコイその直後から大臣やら工事関係者数十人が次々と
亡くなっていきました。
そればかりではありません。
将門の死後1000年にあたる1940年(昭和15年)には、大蔵省に落雷があり
主要建造物が炎上。
さらには終戦直後(1945年/昭和20年)には、GHQによって再び「首塚」を取り壊す
計画が持ち上がったのですが、これも工事中に死亡事故が発生したため急遽中止に・・・
う~ん、実に執念深いヤツだ!
さて、ここからは予測・予言になってしまうのですが、この調子でいくと、
将門の怨念はさらに一段とパワーアップするはずです。
そして、おそらく死後1100年にあたる“2040年”には、ごく少数の例外を除いて、
“1940年”(死後1000年)より以前に生まれた日本人のほとんど全員の命を奪うという
惨状を作り出すに違いありません。
そのように捉えてみると、平将門という人物は、確かにその時代のパイオニア的な存在
でありながら、そうした上に死後に至ってもモノ申し続けたということになります。
う~ん、それにしても「千年祟り」とは、本当にひつこいヤツだなぁ!
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