ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

事始め編37/陵墓は赤い土で取り囲む

住兵衛

~野見宿禰(のみのすくね)は、土師氏の祖として『日本書紀』などに登場する

 古墳時代の豪族である~ 

ひょっこりのこと、Wikipediaにこう説明されているのをみつけました。

しかしちょっと待てヨ、この名前、どこかで聞いた覚えがあるゾ。


ということで、その「野見宿禰」なる人物の来歴を探ることにしたのです。

そこで、同じWikipedia のあちこちをキョロ見していると、こんな説明に遭遇です。

~垂仁天皇の命により当麻蹴速と角力(相撲)をとるために出雲国より召喚され、

 蹴速と互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って勝ち、蹴速が持っていた

 大和国当麻の地(現奈良県葛城市當麻)を与えられるとともに、以後垂仁天皇に

 仕えた~


ああ、そうだった。

神々のお話は別として、「人間同士の相撲」で「最古のもの」というところに、

この宿禰の名が登場していたことを思い出しました。

なんでもこれが、日付の数字がビシッと整った垂仁天皇7年7月7日の出来事だそうで、

西暦に直すならなんと「紀元前23年」ということになるとのことです。


「倭国の女王」と称された卑弥呼の生涯は「170年頃生~247年(248年?)没」と

されています。

そのことからすれば、その女王・卑弥呼の誕生よりさらに200年ほど以前の出来事に

なるわけで、要するにここ時代は歴史というよりは、むしろ神話・伝説の世界と

いうことになりそうです。


何しろ、この垂仁天皇の没年齢が「139歳」というのですからねぇ。

かなり「眉ツバ」が混じっていると受け止めるのが素直な態度なのかもしれません。

ついでにいえば、宿禰VS蹴速によるその「相撲」の内容にも凄まじいものがあります。

なにしろ、「互いに蹴り合った末にその腰を踏み折って」との描写になっている

のですから、ハンパではありません。


要するに、その戦いぶりは、ルールが整っている現代の相撲のとはヒト味もフタ味も

違ったスタイルだったことと想像されます。

それはいいとしても、でもどなたですか、この「垂仁天皇」って? 


そこで「歴代天皇」の項目の方へチラッと目を移してみると、

~第11代・垂仁天皇(在位:前29-後70年)~

ということは、在位期間だけでもざっと100年になります・・・ゲッ、凄い。


   相撲(野見宿禰VS当麻蹴速)


こんな具合にあれこれの道草をしていたところ、野見宿禰についてのこんな説明にも

出会ったのです。

~また、垂仁天皇の皇后、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の葬儀の時、

 それまで行われていた殉死の風習に代わる埴輪の制を(宿禰は)案出し、

 土師臣(はじのおみ)の姓を与えられ、そのために後裔氏族である土師氏は

 代々天皇の葬儀を司ることとなった~


貴人が死去すると生前付き従っていた人々を、その陵のまわりに生き埋めにする。

こうした殉死(じゅんし)の風習が、どうやら垂仁天皇の頃はまだあったようです。

「生き埋めの殉死」ってか・・・そりゃあ、さすがに凄惨な光景だ。


垂仁天皇御自身もこうした殉死を悪習と嘆じていたようです。

またおそらくは野見宿禰自身も同様の気持ちを抱いていたのでしょう。

天皇が臣下に葬儀の方法を問うたところ、

~野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言した~


それはグッド・アイデアだということで、その皇后の陵墓に初めて人や馬に見立てた

埴輪が埋納されたとされ、この方法は以後も踏襲されるようになったようです。

そして、このことが「埴輪」の始まりとされています。

ちなみに「仁を垂れる」という意味の「垂仁」という漢風諡号はこの故事に因むもの

だとされています。


するってぇと、「埴輪」の発明者?は、この野見宿禰ということなの?

そんなことは全然知りませなんだなあ。

ということで、話の流れとしてその「埴輪」を少し追ってみることにしました。


すると、まず、

~埴輪(はにわ)は、古墳時代の日本の特有の器物~

だったら、その「古墳時代」って、いったいいつ頃のことを言うの?

~日本列島の歴史における弥生時代に続く時期区分であり、前方後円墳に

 代表される古墳が盛んに造られた時代を指す~

具体的な数字としては「3世紀中頃-7世紀頃」とされています。


そして、今話題に取り上げている「埴輪」については、

~一般的には土師器に分類される素焼き土器である。

 祭祀や魔除けなどのため、古墳の墳丘や造出の上に並べ立てられた~

さらには、

~3世紀後半から6世紀後半にかけて造られ、前方後円墳とともに消滅した~


   

          復元古墳 / 国宝「船形埴輪」


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「埴輪」という用語に充てられた文字についての説明もありました。

とは「赤い土」の意味があり、とは「取り囲む」意味を持つ~

なぁるほど、有名な古墳の姿を眺めてみると、その多くは鬱蒼とした樹木に

覆われています。


ところが、「復元古墳」に目を向けてみるなら、あれッ、趣は一変します。

なぜならその多くの場合、古墳の表面全体は「石敷き」もどきの状態であり、

そこに各種の埴輪が並べられていて、「樹木」なんぞは1本もありゃせんからです。

その意味では、文字通りに「赤い土で(古墳を)取り囲んだ」ものが

「埴輪」ということになりそうです。


だったら、有名な古墳にはまず例外なく繁っているあの「鬱蒼たる樹木」って、

いったい何なの?

忌憚のない見解が許されるのら、筆者はこう言いたいところです。

~一般人のお墓に例えるなら、手入れもせずに草ボウボウになった状態~


ですから、この「鬱蒼たる樹木」については、被葬者自身もヒトコト言いたい

ことがあるかもしれません。

~何かと忙しいのかもしれんが、ええか、折角ワシを祀るのであれば、

 その「住まい」である墓をきちんと手入れしてくれよ~


それはともかく、「埴輪」をもう少し追ってみましょう。 すると、

~大きく円筒埴輪と形象埴輪の2種類に大別される~

さらには、

~円筒埴輪は、普通円筒(最も基本的な土管形のもの)・朝顔形埴輪

 鰭付円筒埴輪などに細分される。

 墳丘を取り囲む周提帯の上や、墳丘頂部、墳丘斜面に設けられた

 段部(テラス状の平坦面)に横一列に並べられた~


どうやら、形が異なれば配置される場所も違っていたようです。

~形象埴輪は、墳丘頂部の方形基壇や、造出と呼ばれる墳丘裾の

 基壇状構造物の上に立て並べられた。

 形象埴輪からは、古墳時代当時の衣服・髪型・武具・農具・建築様式などの

 復元が可能である~


さらには、

~家形埴輪・器財埴輪・動物埴輪・人物埴輪の4種に区分される~

へぇ、とんと知らなんだが、いろんなバリエーションがあるのだなぁ。


そこで、ひょっこり思い出したことがあります。

なにを隠そう、実は筆者は昨年のこと、「国宝埴輪」を見学していたのです。

場所は三重県松坂市の「はにわ館」、そして「国宝埴輪とは、

~松坂市宝塚1号古墳から出土した「船形埴輪」(長さ140cm×高さ94cm)~

いやぁ、さすがに立派な物でしたねぇ。


さて、折角ここまでお話が来たのであれば、その流れでもうちょっと追ってみよう。

こんな気持ちにもなったのですが、ところが尻切れトンボ気味にここでいったん

中断して、以降はまた別の機会に譲ることにします。


なぜなら、たった今のこと、家族からこんなお声がかけられたからです。

「ごはんだよう」

えぇ、「腹が減っては、戦は出来ぬ」ということですねぇ。

では、悪しからず。


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