もしも編16/歴代藩主の名は堀外にも
筆者の生息地・尾張にはこんな言葉があります。
「尾張名古屋は城で持つ」
こんな意味合いだと説明されています。
~江戸時代に流行した俗謡の一節で、名古屋城を自慢する言葉~
その名古屋城本丸は周りを堀で囲まれており、もう少し丁寧に眺めると、その堀の
外側の位置にニケ所の「金シャチ横丁」があることに気が付きます。
こんな説明と謳い文句になっています。
~(金シャチ横丁は)2018年3月に名古屋城下に誕生した大型飲食施設で、
定番・老舗のなごやめしが集結した「義直ゾーン」、気概あふれる新興の店舗が
軒を連ねる「宗春ゾーン」、2つのエリアで名古屋の美味と共に歴史ロマンを
堪能してください~
義直ゾーン / 宗春ゾーン
ええ、そこで今回は各ゾーンの冠になっている「義直」と「宗春」に焦点を当てて
みようと思った次第です。
地元以外の人、あるいは地元の人の中にも、この「義直/宗春」の名をあまりよく
ご存じない方もあるようです。
実はどちら方も「尾張藩主」、つまり、かつて地元の「お殿様」だった方のお名前
なのですが。
しかし、永い歴史があるわけですから、当然ながら「尾張藩主」はこの御二方だけ
だったわけではありません。
そこで、ちょっと寄り道をしてみたところ、こんな説明に遭遇したのです。
お話は「関ケ原の戦い」(1600年)まで遡っています。
~その戦功(先陣)により徳川家康の四男・松平忠吉(ただよし/1580-1607年)が
入封(清洲藩、52万石)する。 慶長11年(1606年)には、家康の直轄領であった
知多郡(知多半島)も忠吉に加増される~
ところが、です。
~しかし慶長12年(1607年)に忠吉に嗣子がなく死去して天領となった~
そこで、
~代わって甲斐甲府藩から同じく家康の九男で忠吉の弟である徳川義直が
47万2344石で入封し、清洲城から新たに築かれた名古屋城に移って(清洲越し)、
ここに尾張藩が成立した~
ちなみに、この「清州越し」とは、
~名古屋城の築城に伴う(それまでの拠点)清洲から名古屋への都市の移転をいう。
これにより、名古屋という都市が誕生した~
言い換えるなら、それまでの名古屋はてんでの田舎町だったということです。
で、尾張藩が始まったのはまさにこの時であり、その初代藩主に就いたのが、
先の徳川義直(1601-1650年)だったことになるわけです。
それだけではありません。
その尾張藩に対して、実は徳川家はこんな計らいもしています。
~藩領は随時加増されてゆき、元和5年(1619年)5月16日に56万3206石となった。
さらに、寛文11年(1671年)紀伊徳川家との格差をつけて御三家筆頭の家格を
示すため、給人領5万石を加増され61万9500石の知行高が確定した~
「御三家」(尾張・紀州・水戸)筆頭というのですから、「将軍家」に次ぐ家格で
あり、早い話が「準将軍家」ほどの待遇ということです。
こうなってくると、この「尾張藩」の歴代藩主を辿ってみたくもなります。
いえ、アナタは辿りたくないかもしれませんが、筆者がそうしてみたいのです。
まずはWikipediaに頼ってみると、割合丁寧に説明されていました。
いささか乱暴な括りかもしれませんが、ざっとこんな具合に整理してみました。
初代・義直 (よしなお/1601-1650年)/用水整備・新田開発・年貢制度の確立
二代・光友 (みつとも/1625-1700年)/過度な寺社再建で藩財政悪化
三代・綱誠 (つなのぶ/1652-1699年)/実母・千代姫は三代将軍・家光の長女
四代・吉通 (よしみち/1689-1713年)/第六代将軍・家宣から第七代を要請
されるも急死
五代・五郎太(ごろうた/1711-1713年)/数え年3歳で急死
メッチャ幼くして亡くなった藩主もいたようです。
夭逝した五代のその後は、
六代・継友 (つぐとも/1692-1731年)/第七代将軍・家継が重病に臥した際には
第八代将軍候補に挙がった
七代・宗春 (むねはる/1696-1764年)/継友の弟であり、歴代藩主で最も有名?
死刑禁止政策や罪人への寛容主義や性犯罪予防の夜間照明の女性保護政策が
あり、江戸の幕政つまり八代将軍・吉宗の政策を鋭く批判した
なにせ時の将軍・吉宗と真正面からのガチンコ対決を続けたこともあって、
この七代・宗春については現在なお小説・ドラマでも取り上げられることが少なく
ありません。
八代・宗勝 (むねかつ/1705-1761年)/宗春の弟で倹約令中心の緊縮財政政策
九代・宗睦 (むねちか・むねよし/1733-1800年)/財政改革を継続したが、
後に天災などで財政悪化
十代・斉朝 (なりとも/1793-1850年)/一橋家からの養子であり、
男系血統は藩祖義直から断絶
九代の宗睦などは二種類の振り仮名が示されているように、「名前」についての
感覚は現代人とはいささか異なるものがあったのかもしれません。
藩主は続きます。
十一代・斉温(なりはる/1819-1839年)/十一代将軍・家斉の十九男
十二代・斉荘(なりたか/1810-1845年)/十一代将軍・家斉の十二男
十三代・慶臧(よしつぐ/1836-1849年)/在任わずか4年で疱瘡により病没
十四代・慶恕(よしかつ/後の慶勝/1824-1883年)血統としては水戸系
直弼の安政の大獄によって強制的に隠居処分
いやあ、現代流行のキラキラネームとはひと味違う風情はあるものの、こうした
名前を正しく読むのは至難の業です。
十五代・茂徳(もちなが/1831-1884年)/先代・慶勝の弟
十六代・義宜(よしのり/1858-1875年)尾張藩最後の藩主 尾張藩知事。
ということで、尾張藩には十六代にわたる藩主がいたわけです。
そこで、こんな「もしも」の話題に転じます。
~もしも、この金シャチ横丁に三つ目のゾーンができるとしたら、
いったいどんな名称が相応しいのか?~
平たく言うなら、初代・義直、七代・宗春に続く三人目の「有名藩主」ということ
なら、いったいどなたが似合うかということです。
次期将軍候補にも取りざたされた四代・吉通や六代・継友の名を挙げる人も
少なからずおられるのかもしれません。
しかしシビアに見るなら、実際に将軍の座に就いたわけでもありません。
ですから、幕政とは正反対の政策を強行した七代・宗春に比べたら、歴代の各藩主は
いささか知名度が低い印象にもなります。
徳川慶勝 / 定敬、容保、茂徳、慶勝(明治11年9月撮影)
そうした中で、筆者が推すとするなら、やはり十四代・慶勝ということになりそうです。
その理由を挙げましょう。
その壱/いわゆる「第一次長州征伐」においては、征討軍総督に任じられ、
薩摩・西郷吉之助(隆盛)を大参謀として出征したが、「第二次」(再征)には
毅然と反対したことで、結果として「明治維新」の実現を早めることになった。
その弐/幕末の政治状況を大きく動かした、いわゆる「高須四兄弟」の実質的な
長兄的な立場にあったこと。
ちなみに二番目が(岐阜県)高須藩主・徳川茂栄(茂徳/一橋藩を維新立藩)、
その下(三番目)が会津藩主・松平容保(京都守護職)
その下(四番目)が桑名藩主・松平定敬(一会桑政権の一翼)
その参/学究肌の文化人でもあり、その中でも特に当時の最新テクノロジーである
「写真」に魅せられたユニークな殿様であったこと。
いわゆる「黒船来航」(1853年)の折に、ペリー提督に同行していた写真家が、
翌年から日本各地を撮影し始めたものが「日本最古の写真」といわれていますが、
そんな中にあって慶勝は、この「写真」というものに興味を抱き、自ら早々に
研究を始めるや、早くも1861年には独自の「写真撮影」を完成させています。
そして、江戸(東京)・名古屋・広島などで、当時の風景を数多(1,000枚以上?)
撮ったようで、その中でも殊に「名古屋城」の写真は、空襲(1945年)で焼失する前の
国宝第1号としての勇姿を克明に伝えていることだけでなく、当時は殿様しか
入れなかったエリアから撮ったものも多くあって、「史料」としても貴重なものが
少なくないとされているのです。
以上の理由から、「金シャチ横丁」に今ある「義直ゾーン」「宗春ゾーン」の他に、
「もしも」新たな第三のゾーンが設けられることがあるとしたなら、その名称は
ぜひ「慶勝ゾーン」を採用して欲しいと思った次第です。
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