言葉編39/カミもホトケもワレもない
「神も仏もない」
これは世の無情、たとえば、大きな不運や不幸に見舞われたりしたことを嘆くときに、
よく使われる言葉です。
要するに、
~この世の中に、慈悲深い神サマや仏サマが確かに存在してくれているのなら、
これほどまでの不運・不幸に見舞われることはないはずだ~
こうした気持ちを言い表しています。
実は、歴史にはこれによく似た言葉が登場しているのです。
「仏も我もなかりけり」
確かによく似ていますが、ところが、こちらの意味合いはまったく異なっています。
ということで、今回のお話はその言葉が登場する「鎌倉新仏教」から。
まずはその「新仏教」・・・それはこれくらいの案内になっています。
~平安時代までの仏教の特徴はあくまで天皇や貴族が中心であり、
地位が高い人だけの仏教であったが、鎌倉新仏教の特徴は「信仰のしやすさ」が
あり、(中略)庶民、武家にまで広く広まった~
それまでは金もヒマもある一部のエリート層だけのものだったのが、鎌倉新仏教の
登場によって、下々の者も触れられるようになったということです。
そして、こう説明されています。
~(鎌倉新仏教は)法然(浄土宗)・親鸞(浄土真宗)・栄西(臨済宗)・
道元(曹洞宗)・日蓮(日蓮宗)・一遍(時宗)によってはじめられた6宗を指す~
歴史的な事実を仔細に眺めるなら、この他にも別の宗派はあったことも考えられます。
ですから、逆の言い方をするなら、数多あった中で「生き残った宗派」が、
この6宗だったと言っていいのかもしれません。
「生き残った宗派」とは、その教えが後世に大きな影響を与えたとの意味合いに
なりますが、折角の機会ですから、それぞれの開祖の生年と宗派の属性についても
ざっと触れておくことにしましょう。
〇法然(1133-1212年) 浄土宗/浄土信仰の一/親鸞の師
〇親鸞(1173-1263年)浄土真宗/浄土信仰の一/法然の弟子
〇栄西(1141-1215年) 臨済宗/座禅を基本修行とする禅宗の一
〇道元(1200-1253年) 曹洞宗/座禅を基本修行とする禅宗の一
〇日蓮(1222-1282年) 日蓮宗/法華宗の一
〇一遍(1239-1289年) 時宗/浄土信仰の一
これらを非常にスマートにまとめる方法があるようで、それはこんな整理方法に
なっています。
~鎌倉新仏教は、題目・坐禅・念仏の3つの系統に分けられる~
そのセンに沿って整理すると、このようになります。
◇「題目」を基本とする宗派(1つ) →日蓮宗/
経典「法華経」の中身ではなく、なんとタイトル(題目)、つまり「南無妙法蓮華協」
のみを繰り返し唱える。
◇「座禅」を基本とする宗派(2つ) →臨済宗/曹洞宗/
その「座禅」とは、
~禅宗の基本的な修行法で、姿勢を正して坐った状態で精神統一(瞑想)を行う~
ちなみに、こんな補足もありました。
~「坐禅」が正式だが、当用漢字から外れたため「座禅」とも書く~
へえ、ちっとも知りませなんだゾ。
そして、
◇「念仏」を基本とする宗派(3つ) →浄土宗集/浄土真宗/時宗/
極楽浄土への往生を願うために、仏の徳や姿を思い浮かべたり(観想念仏)、
あるいは仏の名を唱えたり(称名念仏)する修行。
なるほど、それぞれはそれなりに適確な説明になっているように思えますが、
ただ筆者的には多少の違和感も残ります。
それは、「時宗」が「浄土宗」や「浄土真宗」と同じグループに仕分けされている
ことです。
なぜなら、「浄土宗」や「浄土真宗」の念仏は、拝みながら声に出して唱える
静かめの「称名念仏/口称念仏」ですが、ところが「時宗」の念仏ときたら、
それとは違って、メッチャ賑やかな「踊念仏」と称されるものだからです。
でも、なんですか、その「踊念仏」って?
こんな説明になっています。
~(踊念仏とは)浄土教の時宗開祖・一遍上人が行った布教の方法で、
太鼓やかねなどを打ち鳴らし、踊りながら念仏や教えを唱えるもの~
「太鼓やかねなどを打ち鳴らし」ですから、「浄土宗」や「浄土真宗」のような、
静かに合掌して念仏を唱えるというスタイルとは全く異なっているわけです。
なにせ、
~多数の人が念仏を唱えながら踊り,三昧の境地に入る所作~
平たく言えば、念仏を唱えて「トランス状態」になるというということですから、
とてもじゃないけど「静かな念仏」なんてことになろうはずがありません。
なのに、同じグループに仕分けされているのです。
そういうことなら、その「踊念仏」の賑やかさには、一体どんな意味・理由があるの?
このことにも、実は明快な信仰理論があるようです。
~信心を得て、往生する喜びがおのずと踊りとなって現れる~
この辺からお話が少しばかりややこしくなってきます。
いいえ、筆者がややこしくしているのではなくて、その教義があまりにもシンプル
だからこそ感じてしまう一種の祖語感・チグハグ感というものなのかもしれません。
~浄土宗(法然/親鸞)系では信心の表れとして念仏を唱える努力を重視し、
念仏を唱えれば唱えるほど極楽浄土への往生も可能になると説いた~
「努力すれば報われる」というところでしょうか。
ところが、
~(一遍の)「時宗」では、阿弥陀仏への信・不信は問わず、念仏さえ唱えれば
往生できると説いた~
なんてこった、阿弥陀仏を信じていなくても、ちゃんと極楽浄土へ連れて行って
くれると言っているのか。 そりゃまたメッチャ御親切なことで。
一遍上人 / 踊念仏
しかし、一遍上人自身の考え方はこうでした。
~仏の本願力は絶対であるがゆえに、それが信じない者にまで及ぶのじゃ~
つまり、こうです。
~一切衆生の往生は阿弥陀仏によってすでに決定されており、極楽浄土へ行ける
喜びが踊りや歓喜となって現れるだろう~
阿弥陀仏を信じようが信じまいが、あるいはその存在を知ろうと知るまいと、はたまた
他宗派に身を置いていようがいまいが、要するに、どんなことをしようがしまいが、
「アンタがばっちり往生できること」は、もうとっくの昔に「決定」(けつじょう)
しているという信心です。
ですから、こんなことも言っているのです。
~(他宗派である)日蓮宗が唱える「南無妙法蓮華経」でも、「南無阿弥陀仏」と
同じ功徳がある~
ですから、非常に柔軟性に富んだ考え方というよりは、むしろ、
「何らの縛り・制約・義務もない」自由放任?の信心と言った方が分かりやすい
のかもしれません。
こうした姿勢を突き詰めていくと、ついにはこうなるのです。
「となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」
(念仏を唱えることで、仏と我との区別なんかはすっかりなくなってしまうぞい。
やれ、南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ・・・)
ということで、お話は冒頭の言葉に戻りますが、比べてみて分かる通りに、
言葉自体はとってもよく似ているでしょう。
「神も仏もない」/「仏も我もない」
ところが、その意味合いが大きく異なっているのです。
というわけで、日本語ってメッチャ繊細な言葉だということを再認識した次第です。
蛇足になりますが、「似た言葉」ということで、今ひょいとこんな「文言」も
思い出しました。
「仏ほっとけ 神構うな」
こちらは、意味合いが大きく異なって、
~仏や神を敬ってもよいが、信仰しすぎて深入りするのはよくない~
ということで、信仰・宗教の世界には、鎌倉新仏教に限らず多種多様な考え方が
あることを改めて再確認した思いです。
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