事始め編26/人体構造探究の夜明け
なにげに手に取った本にこんな一節がありました。
~特に宝暦四年(一七五四)、六角獄舎前で古医方の医師・山脇東洋たちが
行った国内初の人体解剖は、漢方医学の誤りを糺し、洋書の正しさを
証明した画期的事跡~ 澤田瞳子・短編「人待ちの冬」
ところが、うすらボンヤリながらもそれとは違った記憶もあって、ことのついでに
Wikipediaを覗いてみることにしたのです。 すると、
~日本の歴史において最初の人体解剖は『日本書紀』第十四巻にある、
雄略天皇の命によって行われた稚足姫皇女の解剖とされる~
グエッ、だったらこちらの方が、江戸時代の山脇東洋のよりずっと以前の出来事に
なるではないか。
ところが、こう続いていたのです。
~ただしこれは一種の法医解剖であり、系統的な解剖ではなかった~
筆者のような医学の門外漢にあっては、とんと分かりにくい説明ですが、要するに、
人体解剖にも種類があって、このケースはややイレギュラーな部類にあたると
言っているようです。
そこで、ヒツコイのを承知でその「人体解剖」の種類まで追ってみたのです。
すると、こんな説明です。
〇正常解剖(系統解剖)
→献体によって行われる解剖で、人体の構造を学習・研究する目的
〇病理解剖
→死因や治療の効果を調べる目的の解剖
〇法医解剖(司法解剖・行政解剖)
→(司法解剖)事件性のある遺体を解剖
→(行政解剖)死因がわからないときに行う
ですから、先の日本書紀・「稚足姫皇女」(生年不詳 –459年/推定)の場合は、
この「法医解剖」に該当することになり、これとは別の「正常解剖」(系統解剖)と
いうことなら、やはり、山脇東洋(1706-1762年)が行ったものが、本邦初だったと
受け止めていいのでしょう。
ところが、文中の「六角獄舎前で古医方の・・・」の部分も、実はその単語に意味が
よく理解できていません。 そこで、ここも探ることになります。
〇六角獄舎(ろっかくごくしゃ)→平安時代に建設された左獄・右獄を前身とする
京都の牢獄で、移転した京都大火(1708年)以降は
六角獄舎などと呼ばれるようになった。
〇古医方(こいほう)→江戸中期に経験・実証を方法論とし復古主義を唱え、
医学の革新をはかった医学の一派。
しかしながら、「復古主義」という言葉と「革新をはかる」という行動は、相反している
印象にもなります。
ところがこれがドッコイだったのです。
というのは、この「復古主義」とは、中国・後漢(25-220年)時代の陰陽五行の空論を
排する意味合いであり、ですから、この主張はそれ以前の「科学的」?な医学を
取り返そうとするもので、当時ではまさに「革新派」そのものだったわけです。
しかしまあ、人体解剖の日本初が江戸時代だなんてなぁ。
だったら、世界の歴史においても、人体解剖は結構遅い時代に始まったのかしらん。
当然にこんな疑問も湧いてきます。
すると、こんな説明記事にぶつかりました。
~解剖の歴史は古く、紀元前3500年頃に古代エジプトで記述され、紀元前1700年頃に
写筆された書物(パピルス)には頭蓋縫合や脳表面の 状態といったことが事細かに
記述されており、この時代にはすでに人体解剖が行われていたと推測されている~
ウヘッ、メッチャ古い歴史があるといっています。
では、海外の場合はこうした「人体解剖」がそのままストレートに活発化・発展して
いったのか・・・といえば、実はそうでもなかったようです。
~しかし、宗教的・道徳的見地から病理解剖も非人間的な行為と考えられるようになり、
従来の定説では人体の解剖は厳しく禁じられるに至ったといわれている~
ところがまさに「ルネサンス期」の出来事です。
~1500年代に入ると、イタリアの大学で体系立てた解剖学の研究が始められ、
1543年には、実際に解剖して見たものを詳細に著した“De humani corporis fabrica”
(人体の構造)を出版し、近代解剖学の基礎を築いた~
日本でいうなら、織田信長(1534-1582年)が生きた時代に、海外では既に
「近代解剖学」が登場していたことになります。
お話を日本に戻しましょう。
~山脇東洋が日本で初めての人体解剖を行った時の解剖記録・解剖図4枚を
収めたのが、『蔵志』である~
では、その『蔵志』(ぞうし)って?
~江戸時代の医学者・山脇東洋の著した日本最初の解剖書~
との説明になっていますから、外国の先端状況と比べれば、200年ほどの遅れをとった
ものの、日本でも「人体解剖書」が作られたことになります。
もっとも、その内容は必ずしも精緻なものではなかったようです。
~多くの誤りもあった~
ところが、反面では、
~日本医学史上に占める意義は大きく、これ以後、弟子たちにより全国各地で解剖が
行われることになる~
では、この山脇東洋の歴史的役割は終わったのかといえば、これが然にあらず。
こんな説明になっているのです。
~東洋はこの二年後(1758年)にも、さらに一回解剖を行っており、その後
東洋の影響を受けた杉田玄白、前野良沢らがより正確性の高いオランダ医学書の
翻訳に着手するなど、日本医学が近代化する契機を作った~
あれれ、昔学校の授業で耳にしたことのある名前が登場してきました。
折角ですからそこにも触れておきましょう。
〇杉田玄白(1733-1817年)/自身の回想録である『蘭学事始』によれば、
~オランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を見た玄白は、オランダ語の本文は
読めなかったものの、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入した~
この時期が日本における「西洋医学の黎明期」ということかもしれません。
なぜなら、お話はこう続いていくからです。
~前野良沢や、中川淳庵らとともに処刑された死体の腑分け(解剖)を実見し、
解剖図の正確さに感嘆する~
「解体新書」 / 「蘭学事始」(明治版)
さて、ともに腑分けしたそのご両人についても触れておきましょう。
〇前野良沢(1723-1803年)/
~長崎留学中(偶然にも玄白が入手した同じ時期)に手に入れた西洋の解剖書
『ターヘル・アナトミア』を杉田玄白ら、盟友と3年5か月かけて翻訳し
『解体新書』を翻訳し刊行(1774年)~
〇中川淳庵(1739-1786年)/
~若狭国小浜藩に勤めた江戸の蘭方医として、杉田玄白の後輩にあたる人物であり、
前野良沢・杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳した~
ただ、『解体新書』の著者として前野良沢の名はありません。
ええっ、それなら翻訳に良沢が関わっていたことが、どうして分かったの?
~良沢の存在が世に知られるのは『解体新書』の翻訳作業の困難を記した玄白の
『蘭東事始(蘭学事始)』であった~
だったら、良沢はどうして『解体新書』に自らの名を出さなかったのだろうか?
~その翻訳の不備を自らがよくわかっていて、これを恥としていたためとか、あるいは
蘭学に対する幕府の対応が芳しくなかったために、万が一の際に最も蘭語に
通ずる良沢に咎が及ぶのを避けるためだった~
これらの理由があったとされています。
しかし、ともかく、
~翻訳に3年5か月を要したものの、玄白、良沢、淳庵らは『ターヘル・アナトミア』を
和訳し、『解体新書』として刊行(1774年)するに至り、友人によって、
将軍家に献上された~
ちなみに、この当の将軍は第10代・徳川家治(1737-1786年)でした。
もし、将軍・家治が、この献上本をジックリ読み込んでいたとしたら、見たこともない
「人体構造」にビックリ仰天したかもしれません。
なぜなら、初代・家康や第二代・秀忠なぞは、戦場での経験が豊富にあったことで、
酷く損壊した状態の人体も少なからず目撃した経験もあったはずで、医者ではない
ものの現場知識・経験知識として、人体の構造についてもある程度は承知していたと
思われます。
しかし、「退屈なほどに平和」だったと表現される、この時代の将軍には、
そのような体験はなかったことでしょう。
ですから、この『解体新書』にはまさに吃驚仰天の感を抱いたと想像したのですが、
でもひょっとしたら話は逆で、家治将軍は、現代人がバーチャルなバトル・ゲームに
熱を上げるのに似た一種の高揚感をもって『解体新書』に接したのかもしれませんねぇ。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。