ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

逆転編15/創作は史実を駆逐する

住兵衛

播磨国赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(1667-1701年)が、江戸城松之大廊下において、
高家旗本(高家肝入)・吉良上野介吉央(1641-1703年)に斬りかかるという
由々しき事件を引き起こしたのは元禄14年3月14日(1701年4月21日)のことでした。


当日の江戸城が朝廷使者の接待準備を進める大切な日であったこともあって、
第五代将軍・徳川綱吉(1646-1709年)は素早い処置に及び、実行犯である
浅野内匠頭に対して即日切腹を命じています。 


もっとも、浅野が斬りかかろうが斬りかかるまいが、殿中で抜刀、いやそこに
至らずとも、いわゆる(刀を鞘から)「鯉口三寸」切っただけで切腹が、
不文律ながらすでに慣例化していたようですから、綱吉が浅野に対して特段に
意地悪な処置をしたということにはなりません。


浅野家所領の播州赤穂が没収の上に改易されたのはモチのロンです。
とんでもない不祥事をしでかしながら、領地は不問ということでは幕府の威厳が
保てません。
一方、浅野の襲撃を受け負傷した吉良上野介に対する咎めはありませんでした。
なにせ「突然に斬りかかられた被害者」なのですから、これも当然のことです。


しかし、一連の経緯を下のように受け止めていた浅野家の家臣たちは収まりません。
~主君(浅野)だけが刑に処せられ、吉良は不問というのでは「喧嘩両成敗」という
 習いからしても、メッチャ不公平なお裁きではないかッ!~


しかし、実はこれもいささかおかしな理屈なのです。
なぜなら、浅野・吉良間の出来事は、浅野が一方的に暴力・テロ行為に走ったもの
あって、決して喧嘩とは呼べるものではないからです。
ちなみに「喧嘩」とはこんな説明になっています。
~言い合ったり殴り合ったりしてあらそうこと。 諍い(いさかい)~


この時の浅野は、その「言い合ったり殴り合ったり」することもなく、まさに
いきなり「斬りかかって」いるのですから、到底「喧嘩」とは呼べません。
しかし、幕府のこうした処置を納得できない浅野家家臣たちは、筆頭家老である
大石内蔵助(1659-1703年)を中心に、反発の意思を見せるために、籠城や切腹を
検討します。


   殿中刃傷


しかし、まずは幕府の申し付けに従い、素直に赤穂城を明け渡すことにしました。
この段階では浅野内匠頭の弟である浅野大学(1670-1734年)を立てて浅野家再興を
計る道も残されていると判断できたからです。


この「浅野家再興」への模索は以後しばらく続けられました。
しかしながら、家臣たちの当然の突き上げによって、この頃の大石の態度が
籠城・切腹・討ち入りなど、ブレにブレまくり優柔不断に見えたのも、こうした
水面下の「再興交渉」を睨んでのものだったと見ていいのでしょう。
しかし、その努力が報われることはありませんでした。


事態は急転し、浅野大学が閉門のうえ本家の広島藩浅野家に引き取られることが
決定したからです。 
これは「浅野家再興」の道はジ・エンド、もう絶対にあり得ないことを意味します。
この段に至って大石は最終的な断を下しました。
~穢れたる御名跡を立て置き候わんより、打ちつぶし申す段本望と存じられ候~


早い話が、
~御家再興の目が潰れたからには、討ち入りを果たして本望を遂げようゼ~
ということです。


そして元禄15年12月14日、浅野家家臣四十七士は吉良邸に討ち入り、
吉良上野介の首を挙げました。
こうした経緯は芝居や映画や小説などにも数多く取り上げられ、まあ
「日本人の常識」もどきのレベルになっていると言っても過言ではありません。


但し念を押しておくなら、史実としての「赤穂事件」ではなく、創作された
「赤穂事件」の方を承知しているという意味です。
ええ、創作の「赤穂事件」は多くの場合、こんな構図になっています。


浅野内匠頭 → 謙虚で真面目な人間。
吉良上野介 → 意地悪な爺サマで指導役をいいことに浅野をイジメ倒す。
将軍・綱吉 → 犬公方と呼ばれる常識に欠けた短気なバカ殿。
大石内蔵助 → 様々な意見を持つ家臣一同をまとめ上げた冷静沈着な名家老。


これのイメージのすべては、「創作・虚構」の側が作り上げたものであり、
「事実・史実」の側は、これとは全く異なったものがあったように思えます。
たとえば、吉良に斬りかかった浅野の、その動機について「創作・虚構」では、
多くの場合、
~吉良の度重なるイジメに、浅野の堪忍袋の緒がとうとう切れてしまった~
このような描き方をしています。


ところが、これを「事実・史実」の方から眺め直してみるなら、
~浅野の行動の動機・原因は、浅野が抱えていた一種の情緒不安定だった~
このようになりそうです。


実際、事件後における幕府による浅野取り調べにおいても、そのあたりが大いに
注目された形跡があります。
しかし、「創作・虚構」の側ではこの点をちゃっかりスルーしているケースも
少なくありません。


なにせ「正義の側」でなくてはならないわけですから、落ち度めいたものは
無視するに限るということでしょうか。
これも赤穂事件における~創作は史実を駆逐する~の一例ということになりそうです。


しかし、筆者がそうしたことを最も強く感じるのは、実は吉良邸討ち入りの際の
赤穂四十七士のいでたちなのです。
芝居・映画の場合だと、多くは「揃い装束」(ユニフォーム)を着用しています。
えぇ、全員が揃いの「討ち入り装束」姿だということです。


そして、念の入ったことに左右の衿の部分には墨痕鮮やかにこう記してあります。
左衿/播州赤穂浪士
右衿/個人のフルネーム(例:大石内蔵助良雄)


筆者なぞは史実として、この「氏名入りお揃い討ち入り装束」だけは絶対に
なかったと思っています。
ところが、芝居・映画ではこれが一種の「お約束」になっているようで、つまり、
これも「赤穂事件における~創作は事実を駆逐する~の典型的な例だと思えるのです。


   討ち入り(ユニフォーム)

   討ち入り(侵入用ツール)



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なんで、絶対になかったの? だって考えても御覧なさいナ。
真夜中に、数多の討ち入り道具を抱えて、しかも完全武装した四十七人もの
男たちが徒党を組んで足早に行動しているのですから、普通に考えるなら
どう見たって不審の極みです。


ましてや、襟に各自の名が記してあろうものなら、やろうとしていることは、
もう誰の目にもバレバレで、その上に携行している討ち入り道具ときたら、
それはそれは半端なものではないのです。


まずは囲い塀を乗り越えるためには梯子が必要でしょうし、門扉が障害となるなら
これを叩き壊すためには掛矢も必要でしょう。
とにかく、吉良邸の敷地内に踏み込まないことには話が始まらないわけですから、
これらは間違いなく必須の道具なのです。


では、そうした梯子や掛矢を抱えて、しかも真夜中に集団行動していても怪しまれない
ためには、どうしたらいいの?
このように絞り込んでくると、その服装は「火消し衆」のそれが最も適している
印象になります。


実際、討ち入り当夜の目撃談にこんなのがあるとされています。
~討ち入った四十七人は「火事装束」のようなものを着ていたぜ~
この「火事装束」とは、
~消火活動に従事する人々が着用する服装で、活動しやすく、現場での負傷などを
 防ぐ工夫が施されている~


そして、討ち入り隊長?大石自身もこんな指示を出していたようです。
~ええか、黒い小袖 ( 着物 ) を着用し、股引に脚絆(膝下に巻く布)、履物はわらじ、                                                         
 あとは各自思い思いにせよ~

要するに、敏捷に動ける装束にしなさい、ということです。
目撃者の証言とぴったり一致しています。


ですから、芝居・映画に見る四十四士の装束は、まったくの「創作・虚構」だと
いうことは明らかなのです。
ところがギッチョン、~左衿=播州赤穂浪士/右衿=個人のフルネーム~を記した
揃い装束姿が「日本人の常識」となっているのです。


経済学の「グレシャムの法則」はこう言っています。
~悪貨は良貨を駆逐する~
その伝でいけば、こうも言えるのかもしれません。
~創作は史実を駆逐する~


こうした感想がまんざらエエコロカゲンでもないことは、「赤穂事件」四十七士の
討ち入り装束を眺めただけでも素直に納得できるところです。
えぇでも、アナタのような重度のヘソ曲がり者は別かもしれませんけどね・・・


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