ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

数字編13/将軍上洛の時代的風景

住兵衛

筆者の生息地・熱田では、地元の熱田についてもっとよく知ろう、もっとよく
知って貰おうとの趣旨のイベントがこ数年続けて開催されています。 
うっかりすると噛みそうなタイトルですが、「あったか!あつた魅力発見市」
銘打っています。


もっとも、こうした地元の啓発・情報発信という高尚系の目的だけではなく、
その側面には地元有名店の商品販売という経済的な理由もあるやにも感じられる
ところです。
本年(令和6/2024)は、熱田区内の9か所を会場として11月17日(日)に
開催されました。


当日は熱田区内9か所にテント張りの臨時販売所が出現し、グルメ商品などを
売りまくる姿も目撃できます。
そして、東海道五十三次の唯一の海路(宮宿→←桑名宿)として有名な
「七里の渡し」の史跡がある公園もその区内9か所のうちに一つになっています。


で、ここから名古屋城まで続く堀川(運河)を北上し、その途中に架かる尾頭橋
(佐屋街道の西端出発点)まで、片道約30分・3kmの「水上の旅」が楽しめる
企画も用意されているのです。


ちなみにこの「尾頭橋」の読み方は、たとえば「尾頭付き(おかしらつき)の鯛」などの
ように「オカシラバシ」ではなく、まんま「オトウバシ」となります。
さてもさても、日本語って難しいものですねぇ。
そうした環境にあって、筆者は昨年に続いて本年もそのプチ「水上の旅」のガイド役の
そのまたお手伝いとして船に乗り込む幸運に恵まれたのです。


もっとも、ガイドされるお客様からすれば「不運」に見舞われたという表現に
なるのかもしれませんが・・・
それはさておき、その水上を走る船は御座船ともいうのでしょうか、定員は30人ほどで、
乗客が椅子ではなくてそのまま床に座るタイプで、船名を「頼朝」としていました。


しかし、なんでこんなところに「源頼朝」(1147-1199年)の名が登場するのか?
そうした名前を付けるのであれば、「郷土の三英傑」である織田信長/豊臣秀吉/
徳川家康あたりの名を付けるのが、ストレートでありまた相応しいのではないのか?
こんな疑問を抱く人も、ひょっとしたらいるのかもしれません。


しかし、なんのッ!
種を明かせばその理由はいたって明快であり、実はこの「水上の旅」コースの
近くにあるお寺「誓願寺」が、なにを隠そう頼朝公の生誕地とされているからに
ほかなりません。
ご参考までに、その御座船?「頼朝」が尾頭橋脇に着いた折の様子が下の写真です。


   「あったか!あつた魅力発見市」


さて、お話は「七里の渡し」に戻ります。
残念なことに現在ではその姿は影も形もなくなっているために、知る人も決して
多くはありませんが、実はその昔、この脇には「東浜御殿」と呼ばれる尾張徳川家の
施設があったのです。


その御殿について、地元行政はこんな紹介をしています。
~東浜御殿は、一説によると、寛永元年(1624)に初代尾張藩主徳川義直の命で
 神戸(ごうど)の浜を埋め立てて出島をつくり、そこに造営された。
 寛永11年(1634)には三代将軍徳川家光が上洛の際に止宿した~


広さについても抜かりなく触れています。
~その敷地は1万平方メートル以上、海上城郭の様相を誇っていたとされ、御殿は
 名古屋城本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であったと考えられている~


跡地すら残っていないのに、どうしてそんなことが分かっちゃうのか?
~御殿の姿を示す資料は乏しいが、2018年に徳川林政史研究所(東京)に
 おいて詳細な間取図が発見された~


そこらあたりをもう少し補足すると、
~1624年尾張藩初代藩主・徳川義直(1601-1650年)が造営したもので、
 (七里の渡しの東の)浜を埋め立てて東西62間(約110M)、
南北56間(約100M)、
 面積3000坪超の出島を造り、陸地とは橋ひとつだけで結ばれていた~


そして、ここの説明も強調しておきたいところです。
~三代将軍・徳川家光(1604-1651年)上洛の際、帰路にこの東浜御殿で一泊した~
ちなみにこの上洛の際の往路では、名古屋城本丸御殿に二泊したとされています。


その「東浜御殿」のお話をさらに追ってみると、
~1673年に殿舎が一時取り壊され後に再興されるが、1873年(明治6)完全に
 取り壊され大部分は川中に眠る~


取り壊された理由について、筆者は勝手にこう睨んでいます。
明治時代になって藩の財産や建物が新政府の管理下に置かれたことにより、
藩主の別邸や施設は不要と判定されたというようなことではなかったのか。
しかしそうでなくとも、天下がひっくり返ってしまった環境下で尾張徳川家が、
これだけ重厚な施設を従来通りに維持し続けることには、やはり多分の困難が
伴ったようにも思えるのです。


ついでのことに、その東浜御殿の「将軍寝室」?も覗いてみましょう。
とは言っても、先の説明のように東浜御殿は既に影も形もないのですが、ところが、
~東浜御殿は名古屋城・本丸御殿に匹敵する壮麗な仕様であった~
とされており、またしっかり復元もされていますから、ここは参考までに
本丸御殿の方を見てみましょう。


グヘッ、何ともはや見るからに豪華絢爛! 
こんなお部屋に宿泊しようものなら、筆者なんぞはすっかり腰が引けて、安眠どころ
ではなさそうです。


 

    東浜御殿(出島)/ 本丸御殿(名古屋城)


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ということで、お話の方向がいささか行ったり来たりしてしまいましたが、
「将軍上洛」の話題に戻すと、史実としてこんなことが伝わっています。
(1634年)第三代将軍・徳川家光/30万の大兵を率いて入京~


ただし、その後は幕末まで「将軍上洛」が行われることはありませんでした。
その理由はこう説明されています。
~家光までの三代は、勅使による将軍宣下を京都伏見城で受けていたため
 上洛したが、第四代将軍の
徳川家綱(1641-1680年)は若年(11歳)で
 あったため勅使が江戸へ下向して宣下を受けた~


以降はこれが慣例となり、いわゆる「将軍上洛なし」が200年以上にわたって
続いたわけです。
朝廷には権威があるとはいうものの、イケイケドンドンの最中にある幕府ですから
遠慮する必要もありません。
そういうことなら、朝廷に対して将軍職就任の「表敬訪問挨拶」をバッサリ
取り止めちゃったとしても、そうそう不思議なことではありませぬ。 


実際その後200年以上にわたり、そうした「表敬訪問挨拶」なしの状況が続きました。
ところが時代がぐっと下って幕末期になると、この「将軍上洛」が復活したのです。
(1863年)第十四代将軍・徳川家茂/公武合体のため上洛~
なんと、229年ぶりの出来事でした。


それについては、
~東海道を往路に海路を復路に用い、約3,000人の行列を従えて~
との説明もあります。
えぇ、ですから、行列の人数だけを単純比較してみると、こんな具合になります。
三代・家光=三十万人 <なんと100:1> 十四代・家茂=三千人


もちろん、こうした数字は必ずしも鵜呑みにできないのでしょうが、少なくとも
こんな言い方はできそうです、
~(上洛において)幕府初期の三代・家光に比べた場合、幕末期の十四代・家茂は
 圧倒的にショボイ行列しか組めなかった~


この光景の違いは幕府のパワーが落ちてきたことの証拠かもしれません。
というより「公武合体」なんていう、なんとも「苦肉の策」的な手法を模索せざるを
得なかったことが、既にそのことを如実に物語っていそうです。


ちなみに、この家茂の「将軍上洛」にはこんなエピソードも語られています。
~たまたま上洛する将軍・家茂の一行に出くわした長州藩士・高杉晋作
 (1839-1867年)は、そのの行列に向かって「いよッ、征夷大将軍!」と
 声を掛けた~


三代・家光の時代であろうものなら、たちまち「無礼者ッ!」とばかりに
斬りつけられて無事では済まなかったことでしょう。
ところが、この場面の高杉晋作にはそうしたことは起こらず、不問?あるいは
無視?されています。


なんだ、この時期の幕府はそこまで落ちぶれてしまったのか。 
そう思いきや、ドッコイ!
~ただし、その逸話は 国民作家・司馬遼太郎(1923-1996年)の「創作」である
 可能性が非常に高い~


ということで、地元の一日だけのイベント「あったか!あつた魅力発見市」
キッカケとなって、はるか昔の「将軍上洛」へとイメージが広がっていった今回でした。


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