トンデモ編12/御一行様なんと三十万人余
江戸幕府第二代将軍である父・秀忠(1579-1632年)とともに上洛(1623年)した
徳川家光(1604-1651年)は、朝廷より,将軍宣下を受けました。
第三代将軍の誕生です。
そして二年後、大御所だった秀忠が死去した際には再びの上洛を果たしました。
その大きな目的のひとつに、江戸幕府の権威を朝廷や諸大名に示すことがあったと
されています。
この時期の江戸幕府はその権力基盤を固め、さらには全国支配の体制を強化していた
こともあって、将軍である家光が自ら京都に赴くことで、幕府の権威を誇示し、
天皇や公家、そして全国の大名たちにその影響力を改めて認識させておこうと
いうことです。
さらには、いわゆる「紫衣(しえ)事件」以来冷え込んでいた朝廷との関係改善を
図る気持ちも、肚の底にはあったことでしょう。
そうなるとその「紫衣(しえ)事件」にもちょっと触れておく必要もありそうです。
でも、そもそもその「紫衣」って何ですか? こんな説明になっています。
~紫衣とは、僧・尼の尊さを表す紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず
朝廷から賜った。
(ここが大事ですが)同時に朝廷にとっては収入源の一つでもあった~
ところが幕府は、
~慶長20年(1615年)には禁中並公家諸法度を定めて、朝廷がみだりに紫衣や
上人号を授けることを禁じた~
朝廷としても、この定めにはおとなしく従うわけにはいきません。
なぜなら「収入源の一つ」なのですから、そうそう簡単に手放すわけにはいかない
のです。 そこで、こんな展開になりました。
~幕府が紫衣の授与を規制したにもかかわらず、(第108代)後水尾天皇
(1596-1680年)は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の
勅許を与えた~
第三代将軍・徳川家光
後水尾天皇は、幕府のこの定めを敢然と無視したわけです。
~これを知った幕府(将軍・家光)は、寛永4年(1627年)、事前に勅許の相談が
なかったことを法度違反とみなして多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代に
法度違反の紫衣を取り上げるよう命じた~
ですから、こんな説明にもなるもの当然かもしれません。
~(紫衣事件は)江戸幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件で、
江戸時代初期における朝幕関係上、最大の不和確執とみなされる事件~
早い話が、この時期の幕府と朝廷はガチンコの睨み合いをしていたわけで、
その状況を打開すべく、幕府将軍が「上洛」に及んだということになります。
では、双方の会談は「妥協点」を見出すためのものだったのか?
そんなはずはありません。
何しろ家光は「余は生まれながらの将軍である」と言い放ち、そのことを自らの
アイデンティとしていたくらいの人物ですからねぇ。
つまり、幕府にタテつく朝廷を力任せにねじ伏せることで、確執の解消を目論んだと
いうわけです。
そういうことであれば、その上洛が気合のこもったものになるのは当然です。
こんな説明もあるくらいです。
~寛永11年(1634)には、30万人を引き連れて上洛し、朝廷に対し圧力を加える
一方、紫衣事件以来冷え込んでいた朝廷との関係について後水尾天皇の院政を
認めるなどして関係の修復を試みた~
ここで折れて出ないのであれば、
~ワタシ(幕府)はアナタ(朝廷)を「干乾し」にできるのですよ~ということです。
さすがの天皇とて「干乾し」にされたのでは、どうすることもアイ・キャン・ノット
ですから遂に屈服です。
そこで、後水尾天皇は退位し、わずか7歳の自分の娘・興子に譲位(第109代・明正天皇)
したのです。 おそらくは随分とむかっ腹を立てていたことでしょう。
その幼き明正女帝の血筋がまたユニークで、実に見事に朝廷・幕府間の懸け橋に
なっているのです。
~後水尾天皇の第二皇女。
母は太政大臣征夷大将軍徳川秀忠の五女の源和子(東福門院)。
徳川秀忠と崇源院の外孫、在位当時の将軍徳川家光の姪にあたり、
徳川家綱・綱吉の母方の従姉~
つまり、このような存在だったということです。
~徳川将軍家、ひいては三大幕府の将軍家を外戚とした唯一の天皇である~
こうしたことまでをも生み出したとするなら、この「紫衣事件」の歴史的な影響は、
思いの他、広い範囲に及ぶものだったのかもしれません。
禁中並公家諸法度 / 本丸御殿・上洛殿(名古屋)
それはともかく、上の説明にある「30万人を引き連れて上洛し」という部分に、
筆者は小首を傾げました。
いくら何でも多すぎやしませんか、ということです。
そこで、大名の「参勤交代」のことをひょいと思い出したので、その中でも最大の
大名である加賀百万石の前田家の例を探ってみたのです。 すると、
~加賀藩の参勤交代は、大藩ゆえにその規模もまた大きかった。
随行人員は最低でも2,000人、多いときは4,000人という~
ですから、平均すれば3,000人デコボコといったところでしょうか。
加賀百万石で3,000人、将軍・家光は30万人だとすれば、その差はなんと100倍にも
及びます。 そこで、こんな空想も芽生えます。
~その30万人が行列を組んで歩いたとしたら、いったいどうなるの?~
そこで、その30万人が3列並びで、前の者と1メートルの間隔を取って歩いたと
仮定してみると、こういうことになりそうです。
〇30万人/3列=タテに1万人づつが並ぶ。
〇その1万人が1メートル間隔に並ぶと=その距離1万メートル。
〇1万メートとは、なんと10kmの超長大行列。
しかしまあ、ではその「30万人」の、その構成はいったいどうなっていたの?
人数が多すぎるために、どうにもこのあたりが気になります、
そこで試しに「AI」にお尋ねしてみることにしました。
こんな具合の質問をぶつけてみたわけです
~江戸幕府三代将軍・徳川家光の上洛は一行総勢「30万人余」とされているよう
ですが、それだけの人数の御供は実際どのような人たちだったのでしょうか?~
すると、こんな回答(以下抜粋)がありました。
1/家光の護衛や身の回りの世話をする近臣、侍、足軽など。
2/諸大名とその家臣団
→幕府への忠誠を示すために、各地の有力大名たちも随行した。
3/後方支援の役人や労働者
→大人数の行列を支えるため、食事や宿泊の手配を行う役人、荷物の運搬を
担当する人足、馬の世話をする者、調理人なども同行した。
→特に江戸から京までの距離は長いため、行列の宿泊場所や食事の準備が
重要であり、そのための労働者が多数動員された。
.4/その他の役職者
→幕府の運営に関わる要職の人物も参加しており、実務にあたる官僚、文官、
御用商人なども随行した。
→これは、上洛の間にも幕府の事務が円滑に進むようにするためであり、
各地での調整や交渉にあたる役人も必要とされた。
なあるほど、将軍の移動ともなると大変なものだと改めて思ったところです。
しかし、その全員が「江戸から京まで」、つまり出発地点から最期の到着地点までの
全旅程を、通しで随行したとも思われません。
幕府・将軍に対する服従の意を示せればそれでいいわけですから、その意に沿って
一定区間だけを随行をしたようにも思えます。
なにせ家光ときたら「御家御取り潰し」を趣味にしているような人物ですから、
諸大名とてそのくらいのことをしないことには不安で仕方ありません。
ひょっこりヘソを曲げられるようなことがあれば、即「御家御取り潰し」と
されてしまうかもしれないからです。
そうした状況にあれば、目を付けられないためのゴマスリ随行も致し方なかったと
思われます。
それにしても「30万人」とは、いかにもモノ凄い人数です。
こんな具合に素直に驚いていると、ナントこんな文言が出ていたのです。
~実際の人数について、当時の文献や記録には「30万人」と記されたものも
ありますが、これはおそらく誇張された数字です。
江戸時代の人口や移動手段を考慮すると、現実的な人数は数万人程度で
あったと推測されます~
その数万人もおそらくは通して随行し続けた人数ではなく、一定区間のみの随行も
ある程度はカウントした、いわゆる「延べ人数」もどきの数字ということに
なるのでしょう。
ということで、加賀百万石の平均3,000人デコボコに対し将軍家が「数万人程度」。
要するに、史実が表向きの「30万人余」を大きく下回るということであるのなら、
筆者もそれなりに得心がいく・・・こういうことになりそうです。
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