微妙編16/大神は皇妃に成り代わる
前回の「信長塀」に続いて今回も話題は熱田神宮の境内散策になります。
しかし、どうやら以前にも同じようなテーマを扱ったことがあったようですが、
書き終わるまでてんで気が付かなかったという為体でしたから、まあそこは
ゴメンナサイよ。
で、前回の「信長塀」の場所から北を向いてみます。
するとイヤでも「神楽殿」が目に入りますので、その東脇から北へ伸びて
少し下り坂になっている小径に足を進めてみます。
「奥の細道」ならぬ「傍の細道」?といったところですかねぇ。
小径の両脇は勿論のこと鬱蒼とした杜になっていて、その中に龍神社/御田神社/
などの境内摂社・末社、その他にも三種神器の「草薙御剣」を収めていたとされる
土用殿(戦後再建)などが散在しています。
それらを素通りするようなカタチでさらに進んでいくと、割合小ぶりな構えの
末社・清水社があり、さらにその前の石段を下ります。
すると湧き水があって、なんとここに「楊貴妃」の名前が登場するのです。
ええ、その湧き水の真ん中あたりにある小さ目の岩が「楊貴妃石碑の址」とされて
いるのです。
このように伝えられています。
~熱田神宮の境内には、(かつて)楊貴妃の石塔と言われるものがあった。
それは境内の末社・清水社の近くにあったが,貞亨三年(1686)の造営のときに
廃絶された。
今日では、清水社の湧き水の中の石が石塔の頭部であると言われている~
楊貴妃石塔の址(熱田神宮)
そして、ここでは願懸けもできます。
~手元に置かれている柄杓で湧き水をすくい、水面から頭を出しているその石を
目掛けて三度水をかける(石に命中する)と願いが叶う~
但し、御賽銭を忘れたのでは、三度命中も無効にされてしまうかもしれませんので
注意が必要です。
しかしまあ考えてみれば、このように「神社」と「楊貴妃」の取り合わせだなんて、
何となく微妙な違和感も覚えます。
そこで、まずはその楊貴妃サンの身元確認に及んでみると、こうなっていました。
~楊貴妃(719-756年)は中国唐の第9代・玄宗皇帝(685-762年)の寵姫で、
姓は楊、名は玉環。
才知があり琵琶を始めとした音楽や舞踊に多大な才能を有していた~
ですから、「楊貴妃」とは本名ではなく、「楊家出身の貴妃」ほどの意味になります。
そして、その「貴妃」にも深入りしてみたのですが、それはこんな説明です。
~貴妃(きひ)とは、中国の後宮における女官の位で、皇后の次に位の高い地位です。
恵妃、華妃とともに三夫人と呼ばれ、皇后のポジションに最も近い四人の妃を
四夫人と呼ぶこともあります~
ちなみに、この他にも~皇后の他に四夫人(貴妃、淑妃、徳妃、賢妃)~などの
説明があったりして、そうしたあれこれの説明をややこしく感じてしまいましたが、
早い話がこのくらいのイメージと捉えても間違いではなさそうです。
~玄宗皇帝には皇后の他にも数多の側室がいて、楊貴妃もその一人だった~
ただし、その「楊貴妃」の美貌については数多の紹介があって、それに従えば、
「ただならぬ美貌」だったことになりそうです。
たとえばこんな具合。
~世界三大美人(クレオパトラ・楊貴妃・ヘレネー)の一人であり、
古代中国四大美人(西施・王昭君・貂蝉・楊貴妃)の一人とされている~
ちなみに、上の「世界三大美人」の一人として名前を挙げられている「ヘレネー」
さんはギリシャ神話に登場する方です。
実在した女性ではないという理由もあってか、日本ではその「ヘレネー」さんに
代わって、平安時代前期の女流歌人「小野小町」(生没年不詳)を挙げる向きも
あるようです。
それはともかく、楊貴妃の美貌についての説明はさらにエスカレート。
~また、玄宗皇帝が寵愛しすぎたために「安史の乱」(安禄山の乱/755-763年)を
引き起こしたと伝えられ、そのために「傾国の美女」と呼ばれている~
うへぇ、その美貌が原因で、国家まで傾けてしまうというのですから、それはそれは
もうタダゴトではありません。
そうそう、そうした「美貌」についての定義には、こんな解説もありました
~壁画等の類推から、当時の美女の基準からして実際は豊満な女性だった~
ひょっとしたら「豊満」とはいささか飾った表現で、実際には「メッチャ美女」とは、
「メッチャおデブ系」ということだったのかもしれません。
では肝心の絶世の美女「楊貴妃」と、この「熱田神宮」の関りは?
ここは「歴史」と「神話」が複雑?にからみ合ったお話になっています。
~唐の玄宗皇帝が日本を侵略しようとしたとき、日本の神々が協議した結果、
熱田の大神が楊家に生まれて貴妃となることとなった~
ここに登場している「熱田の大神」とは熱田神宮の御祭神である「熱田大神」のことで、
熱田神宮ではこのように説明しています。
~祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣を御霊代とされる
天照大神のことである~
楊貴妃伝説 / 白村江の戦い(663年)
ということですから、熱田神宮と楊貴妃という両者の関係は、ここですでにバッチリ
成立していることになります。 お話はさらに続きます。
~そして、楊貴妃(すなわち熱田大神)は、玄宗に仕えてその心をたぶらかせ、
日本侵攻を思いとどまらせた。 しかし、(政治に身が入らぬ)玄宗は安禄山の乱で
都を追われ、その途中、楊貴妃は玄宗の部下に殺されてしまった。
そしてそのとき、楊貴妃はたちまち元の熱田の大神に戻り、船に乗って熱田神宮に
帰還したという~
こうなってくると、その「玄宗皇帝」についても押さえていく必要がありそうです。
~玄宗(げんそう/685-762年)は、唐の第9代皇帝。
天下泰平の中で玄宗は徐々に政治に倦み始め、寵妃武恵妃の死去(737年)により、
玄宗は新たに寵愛に足る美女を求めた。
740年、玄宗の息子寿王の妃となっていた楊玉環が見いだされ、玄宗の寵愛を
得てたちまち皇后に次ぐ貴妃の地位に昇った。 いわゆる楊貴妃である~
うはあ、息子の嫁さんを自分の側室にしちゃうなんて、玄宗皇帝もなかなかに大胆で
しっかり曲者ですねぇ。
それはともかく、玄宗皇帝の「対日政策」に対して、なぜ「日本の神々が協議」を
しなければならなかったのでしょうか?
その点は、筆者はこう捉えています。
~玄宗の時代より100年ほど以前の「白村江の戦い」(663年)のトラウマのせい~
では、その「白村江の戦い」(663年)って?
~朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す
日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間の戦争のこと~
この戦いに日本側はボッコボコのボロ負けを喫しました。
そして、時の実質的トップであった中大兄皇子(後の第38代・天智天皇)は、
このボロ負けをこう受け止めたようです。
~今回の日本側の大敗北によって、唐は必ずや「日本侵略」に出てくる~
その恐怖心はハンパなものではありませんでしたから、以下のようなことにも
取り組みました。
〇大宰府の設置/九州に(唐を睨んで)軍事・外交を主任務とした機関を。
〇防人・烽(とぶひ)の配備/防衛軍の充実と情報伝達システムの整備。
〇水城の設造/国防拠点の建設。
〇遣唐使の派遣/唐に対する外交に細心の注意を払う。
それだけではありません。
〇近江大津京への遷都/遷都自体は珍しくないものの、琵琶湖のほとりの大津への
遷都は史上初めて。
どれもこれも「唐による日本侵略」という想定事態に震えあがって打ち出した策です。
それどころか、天智天皇(626-672年)自身は、「白村江の戦い」以後の
晩年約10年をほぼほぼノイローゼ状態で過ごしたように思われます。
こうしたトラウマのせいで、玄宗皇帝の対日政治姿勢を見た時、
日本側は(神々も含め)こう考えたということなのでしょう。
~「白村江の戦い」の経緯を決してくり返してはならない。
だって、そのために遷都したり、それによる天皇の長期ノイローゼなんて、
まったく一文の得にもならないナンセンスなことだものねぇ~
つまり、当時の日本民族も恐怖心が「熱田大神と楊貴妃」のお話を生んだことに
なりそうです。
~しかしまあ、神サマが政治に(しかも外国の)介入するなんて、ちょっと
問題なのでは?~
こんな感想を持たれた方にちょっと一言。
~えぇ、熱田大神の頃にはまだ国家と宗教団体の分離の原則、いわゆる
「政教分離原則」の意識は芽生えていなかったのですから、どうかご心配なく~
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