謎解き編38/ハテナに遭遇した境内散策
筆者のお散歩コースのひとつに熱田神宮があります。
鬱蒼とした杜になった境内を散策するものですが、実はこの場所は歴史あるいは
伝承などの宝庫でもあるのです。
そんな中から、今回は「信長塀」取り上げることにしてみました。
その名称にある「信長」とは、もちろん戦国時代の大英傑であり、かつまた
地元出身者でもあるあの織田信長のことです。
知らない人でも知っているくらいの超有名人ですが、ここは念のためにちょいと
身元確認をしておくことにします。
~織田信長(1534-1582年)。 尾張国(現在の愛知県)出身。
家督争いの混乱を収めた後に、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、
勢力を拡大した~
また、この時の合戦相手・今川義元(1519-1560年)の人物像は、
~戦国時代の武将。 駿河国および遠江国の守護大名・戦国大名。
戦国時代における今川氏の最盛期を築き上げるも、尾張国に侵攻した際に
行われた桶狭間の戦いで織田信長軍に敗れて討ち取られた~
お話を「信長塀」に戻します。
すると、その土塀の前には案内立札が建てられていて、墨痕鮮やかにその由緒が
記されています。
せっかくですから、それも読んでみることにしましょう。
~永禄三年(一五六〇)織田信長が桶廻間出陣の際、当神宮に願文を奉し
大勝したので、その御礼として奉納した塀である。
土と石灰を油で塗り固め、瓦を厚く塗り固めている。
三十三間堂の太閤塀、西宮神社の大練塀と並び日本三大土塀として名高い。~
ここに示されている「日本三大土塀」は「名高い」との説明になっていますが、
実際どの程度の方々がご存知であろうかは、筆者は寡聞にして存じません。
信長塀(熱田神宮)
それともかく、その時の「桶狭間の戦い」とは一説にはこんな按配だったようです。
~永禄3年(1560年)5月、今川義元が尾張国へ侵攻した。
駿河・遠江に加えて三河国をも支配する今川氏の軍勢は、1万人とも4万5千人とも
号する大軍であった。
織田軍はこれに対して防戦したがその兵力は数千人程度であった~
こんな説明ですが、とは言うものの、
~戦場に送り込める戦闘員の数は、石高1万石当たり最大でも250人程度~
これが当時の軍事常識だったことを思えば、いかに隆盛を誇った今川義元でも、
「4万5千人」とはさすがに大袈裟に過ぎる数字に感じられるところです。
しかし早い話が、どちらにしても織田軍の「圧倒的不利」な状況だったわけで、
それを思えば「当神宮に願文を奉し」たのも当然のことだったかもしれません。
ただその「必勝祈願」の様子については様々な説明があるようで、以下もその一つ。
~午前8時ころ、熱田神宮に到着した信長は
「この戦いは多勢に無勢、メッチャ苦しい戦いとなるからして、
熱田大神の力を借りてぜひ勝利したい」との願文を家臣に作らせ、
神前にぬかずき、集まった兵約300騎の前でその願文を読み上げ戦勝を祈願した~
こ説明だと、「集まった兵約300騎」の居所が神宮境内のようにも解釈できそうです。
ところが、これとは別の説明も見つけました。
~幸若舞「敦盛」を舞った信長は、「(出陣の)法螺貝を吹け、具足をよこせ」
と言って鎧を身につけ、立ちながら飯を食い、兜をかぶって出陣。
その時ついてきたのは小姓衆6名だけだった~
この説明にあるように、もし~その時ついてきたのは小姓衆6名だけだった~
としたら、実戦部隊はそれゾれの戦地に先立って出陣していたことになりそうで、
そうしたことからも「集まった兵約300騎の前でその願文を読み上げ」ることは
できなかったようにも感じるところです。
ちなみに、その前に信長が舞ったとされる、その幸若舞「敦盛」にはこんな言葉が
並びます。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
一度(ひとたび)生を得て滅せぬ者のあるべきか」
えぇ、「桶狭間の戦い」を扱ったドラマ窓ではお約束のように描かれるシーン
ですから、さすがの筆者もこの文言だけは知っています。
まあ、この時の信長はこの「人間五十年」の意味合いを自分に言い聞かせたという
ことなのでしょう。
それに、重箱の隅をつつくようですが、先の「立ちながら飯を食い」との説明から
すれば、こんな解釈なるのが自然に思われます。
~この時の信長は一気に駆けて、つまり一目散で熱田神宮へ向かった~
ところが実はそうでもなかったような説明もあるのです。
~日の出の午前5時頃に清須場を出た信長は、榎白山神社(現名古屋市西区)、
続いて日置神社(現名古屋市中区)へも立ち寄り、熱田神宮(現名古屋市熱田区)
へ到着したのは午前8時前頃だった~
昔と今とでは時刻の表し方が異なるため、メッチャ大雑把な言い方になりますが、
~清州城を出た信長一行は(2~3時間かけて)熱田神宮に到着した~
「立ちながら飯を食い」とは違った印象になります。
筆者は、普段の移動手段には馬ではなく自動車を採用していますから、
よく知らないのですが、馬を知っている方だとこんな感想にもなるとのことです。
~清州城から熱田神宮までは美濃路を通ると15km弱で、この距離は馬なら30分も
かからない程度だから、(この時の信長は)非常にのんびりしたペース~
桶狭間の戦い(今川義元) / 織田信長
途中二か所の神社に立ち寄って必勝祈願をしたという事情もありますが、なにしろ
「さあ、たった今から戦が始まるぞ」という時であり、その急ぎのために
「立ちながら飯を食い」出発したことを思えば、このトコトンののんびりペースは
いささか不可解でもあります。
また、神社に立ち寄ったその都度に行ったとされる「必勝祈願」についても、
これを不可解と受け止める向きもあるようです。 こういうことです。
~根っから「神仏を信じない」信長が、神社で重ねて必勝祈願だなんて、
いくらなんでも理屈に合わない~
実は筆者もそう感じている一人です。
なぜなら、信長の人物像をこう捉えているからです。
~根っからの科学的思考の持ち主であった信長は、
神仏などに対する(非科学的な)信仰をもつことはなかった~
こうした姿勢は、孔子(前552?-前479年)のモットーを連想させます。
「怪力乱神(かいりょくらんしん)を語らず」
つまり、あくまでの科学的理論の上に立った言動を是とするものであって、
たとえば奇怪なこと/神秘的なこと/怪しく不思議なこと/人知ではかり知れない
もの/などを受け入れることはしない、と言っているわけです。
実際、信長もそうした姿勢でした。
~他人が神仏を信仰するのはとんと構えせんけど、ワシ自身は信じておらん。
なんでなら、その神仏が実在することや、備えとるとされるパワーについては、
なんにも実証されておれせんでだがや~
だったら、なぜ信長は「神社巡り」をしたのでしょうか。
信じてもいない神様に対して勝祈願とは、てんで理屈に合いません。
そこで、登場するのがこんな見方です。
~信長本人が神を信じていたとはとても思えない。
しかし、家臣や兵士には信じる者たちが多いことは充分に知っていた。
そこで、集まった配下の者たちを安心させる、勇気づけるために神様に
必勝祈願をした~
この説明は筆者も納得できます。
「集まった兵約300騎の前でその願文を読み上げ」ることが事実だったとしたら、
これも同様の意図があってのことだったと解釈できるからです。
そして、そうした信長の「家臣たちに対する心配り」は、合戦に勝利した後も
発揮されました、
それは、~戦勝御礼として土塀を寄進する~ことでした。
これも信長の心配りのひとつで、「家臣たちのやりたいこと」を信長が先回りした
ものだったのかもしれません。
さて、その「信長塀」は、かつては400Mほどもあったとされていますが、
現存するのは、ちょっと悲しいことですが、僅か100M余りだとされています。
というわけで、今回は図らずも「ハテナに遭遇した境内散策」ということに
なった次第です。
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