ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

逆転編13/生来将軍は精進を心掛けた

江戸幕府第三代将軍・徳川家光(1604-1651年)のエピソードには割合ユニークに

感じられるものも少なくありません。

たとえば、将軍職に就任した際に諸大名に発したこんな言葉。 

~余は生まれながらの将軍である~

将軍になる人自体が非常に稀である上に、そこに「生まれながらの」が付くのですから、

「割合に」どころか「すこぶるで強力に」ユニークな言葉だとしてもよさそうです。

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その言葉は、これくらいの意味だったようです。

~祖父である初代将軍・家康(1543-1616年)も、また父である二代将軍・

 秀忠(1579-1632年)も、皆(諸大名ら)と共に戦った数多の戦さの末に将軍の座に就いたもの

 であるが、余はそのような戦さ体験を必要としなかった「生まれながらの」将軍なのである~

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時系列的な表現なら、~江戸幕府が成立した後に生まれた最初の将軍~とも言えるのかも

しれません。 ですから、自然に高飛車な態度も取ることにもなります。

~余のやり方に不満不服を感じる者がいるのであれば、遠慮はいらん。 

早々に領地に帰って戦さの準備をするがよいぞ~

要するに「文句があるなら腕で来いッ!」と言っているわけです。

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それを裏付けるこんな行動も見せています。

徳川家光は大名支配の強化を目指すと共に、大名統制のための基本法である

「武家諸法度」を改定し、大名に「参勤交代」を義務とする規定を加えた~

ちなみに武家諸法度とは、こんな説明になっています。

全国の大名達に規範を示した法令で、二代将軍・秀忠が公布した

 

その「参勤交代」は諸大名にとっては大変に酷なものでした。 なぜなら、

参勤交代とは、大名が1年おきに自分の領地と江戸を行き来し、将軍のために働く

 制度であり、領地に帰るときは妻や子を「人質」として江戸に残す決まりだった~

 

color:#001D35;letter-spacing:.7pt;mso-font-kerning:0pt">幕府に対して従順であり反抗の気持ちを抱かないように、幕府が諸大名から「人質」を

取るという、まさに力づくの政策ですからモロに「武断政治」と言えます。

ところが、将軍就任後のこうした高飛車一辺倒の姿からは想像しにくいのですが、

幼少期は体が弱く吃音があり、おとなしい性格であった~

ちなみに「吃音」(きつおん)とは、言葉がなめらかに話せない症状をいいます。


 三代将軍・徳川家光


さらには、これは割合によく知られたエピソードだと言ってもよさそうですが、

若い頃の家光は男色家だった為に女性に興味を見せなかった~

そういえば、家光がこっそり自分の顔に化粧を施して喜ぶシーンがTV時代劇でも描かれたことが

ありましたっけ。 


しかしこうした嗜好も、庶民という立場であればそのままうっちゃっておかれたのかもしれませんが、

将軍ともなればさすがにそうはいきません。 

なにがなんでも世継ぎになるべき男児を儲ける必要があるからです。

「後継者」がいないという事態は「将軍家の一大事」であり、ひいては「国家の一大事」でもある

わけですからねぇ。 


そこで、

~その行く先を懸念した家臣たちの計らいで、美女と対面する機会を増やされ、そのことで女性にも

 興味を見せるようになった~

「美しい女性には興味を示した」なんて言い草は、現代では「セクハラ」になってしまいそうですが、

なにせ昔のことでもあるので、そこはご容赦ください。 


それはともかく、この後には、

~側室のお振の方が長女・千代姫(1637-1699年)を産んだのを皮切りに、幾人もの側室を

 寵愛した~とのことですから、やれやれ一安心の運びでした。

ちなみにこの千代姫(霊仙院)は、四代将軍・家綱、甲府藩藩主・綱重さらには

五代将軍・綱吉の異母姉にあたる女性です。 


また、家光はこんなことにもキッチリ目を向けていました。

~対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、

対外貿易の管理と統制を強化していった~

要するに、権力・財力などの「幕府一極集中」を計っていたと言っていいのかもしれません。 


ユニークなエピソードは実は他にもあります。

ただそれが「武断政治」チックなものになるのは、一面仕方のないことかもしれません。

なにしろ永年の宿敵・豊臣家を滅亡に追いやった「大坂の陣」(1615年)から、まだそれほどの時が

経っていない時期のお話なのですから 


~家光はたびたび「辻斬り」をした~ ゲッ! 今で言うなら「通り魔殺人」ということです。

「おいおい、下手なTV時代劇でもあるまいに、将軍様自らが辻斬りに精を出すのかヨ」

こう言いたくなるアナタの感性は、平和至極な現代においてはいたってまっとうなモノでしょう。
ところが、繰り返しになりますが、この頃はまだ「大坂の陣」の大乱の記憶が消えて
しまっては

いない時期なのです。


"Segoe UI"">宿敵・豊臣家だけはやっとの思いで滅ぼしたものの、薩摩や長州などの潜在仮想敵国を屈服させる

までには至らなかった状況下ですから、「天下泰平」とまでは言えません。

それどころか、幕府の基盤そのものがまだ確固たる安定とは言えない時期なのです。
つまり場合によっては、再び戦乱・反乱が起こることだって充分にあり得た時期ということです。
 


そうした際(つまり出陣)に、これまで戦さの体験がゼロである「生まれながらの将軍」家光は立派に

戦えるのか? その点は、おそらく家光本人も一抹の不安を抱いていたことでしょう。

なにしろ、祖父・家康や父・秀忠と違って、

~戦争を知らない、生まれながらの将軍~なのですからねえ。 


そこで家光はこう考えます。

~いつ戦さになろうが、戦場では腹のすわった行動がとれるようにハードな

 トレーニングも積んでおかなくっちゃ~ 


事実、こんな説明もあります。

~(家光は)武芸を好み、たびたび御前試合寛永御前試合や慶安御前試合など)や

武芸上覧などを催している。

特に剣術を好み、自身も柳生宗矩に師事し、柳生新陰流の免許を受けている~ 


color:#202122;mso-font-kerning:0pt">しかし、家光はさらに加えてこうも考えます。

~いくら激しい鍛錬であったとしても、道場でやっているのでは所詮シュミレーションに過ぎない。

イザの段に武家の棟梁である自分がびびってしまったのでは笑い話だから、

そうならないためには、人を殺すことを「実際に体験」しておかなくっちゃなあ~

立派な?心がけです。


    

      徳川光圀 / 五代将軍・徳川綱吉


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現代の常識・道徳からすればいささか捻じれた向上心ということになり、確かに言語道断です。

でも当時の時代の空気の中では、実際それほど奇異な考え方でもなかったようで、

そのことは、家光より二回りほど若い「黄門様」として有名なあの水戸光圀(1628-1701年)に

また、若い頃には同様な「修練」?を体験している事実があることからも窺えます。


つまり三代・家光より24歳も若い黄門様こと光圀でさえ、若い頃に仲間に誘われて

寺の縁の下から引きずり出した浮浪者を斬り殺した経験をもっていたという事実です。

もっとも光圀も、内心ではさすがに「良くないことだ」と思っていたようで、後年このことを悔いたとされて

います。

しかしその時はそれに付き合わないことには、仲間から「臆病者」呼ばわりされるので、そうは

なりたくない一心で実行してしまったようです。


つまり、家光より四半世紀も後の武士でさえ、「臆病者」呼ばわりされるよりは「人を斬り殺す」ほうが

まだマシだとする空気が漂っていたということです。

~敵も殺せないような「臆病者」では、戦場においては決定的に役に立たない~
ひょっとしたら、家光は心底にこうした一種の強迫観念を抱いていたのかもしれません。
 


ということは、必然的にこうなります。

~武士たる者は上下を問わず、いつでも人を殺せるだけの強靭な心と巧みな技術を、常日頃から

 備えておく必要がある。 トップに立つ将軍なら尚更のことだ~


つまり、家光による「辻斬り」の実行や力づくの政治は、この時代の空気を素直に

反映させたものだったとも言えるのかもしれません。

現代では「通り魔(辻斬り)」なんぞは、弁解の余地もないトコトンの凶悪卑劣な犯罪ですが、

家光の頃の時代感覚・武士の常識からすれば、必ずしも「悪一辺倒」の所業とは考えられて

いなかったことになりそうです。


そして、こうした思想を一掃させたのが、五代将軍となった徳川綱吉(家光の四男/

1646-1709年)による、その悪名?も高き、いわゆる「生類憐みの令」だったかもしれません。

何しろ建前としては「蚊も殺しちゃいかん」ということだったらしいですからねぇ。 


さて、このように歴史を見返してみると、「通り魔」よりは「臆病者」の方がよほどマシだと認めてもらえる

現代という時代を、筆者はまことにありがたいと心の底から思っています。

ええ、実は筆者、トコトンの臆病者なんですねぇ、これが。


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