ヤジ馬の日本史

日本の常識は世界の非常識?この国が体験してきたユニークな歴史《日本史》の不思議をヤジ馬しよう!

微妙編16/とある天皇の諡号と皇后

住兵衛

あれこれの異説もあるようですが、通説に従えば初代・神武天皇から第44代・元正天皇
までの歴代天皇の諡号は、淡海三船なる人物が一括で付けたものとされています。
とはいうものの、第39代・弘文天皇はその中に含まれていません。
それはある意味当然なことで、明治時代になるまでその「即位」はなかったとされて
いたからです。


ちなみに、その「淡海三船」(おうみ の みふね/722-785年)に触れておくと、
~当の弘文天皇の曽孫に当たる奈良時代後期の皇族・貴族・文人で、初め御船王を
 名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる~

つまり、第38代・天智天皇の子が「弘文天皇」であり、その曽孫にあたるのが
淡海三船という繋がりになっているわけです。


では、その「弘文天皇」(648-672年)とは?
~第38代天智天皇の皇子で、1870年(明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ、
 歴代天皇に列せられたが、実際に大王に即位したかどうかは定かではなく、
 大友皇子と表記されることも多い~


なんと、明治時代に入ってからの諡号であり、しかも
「実際に大王に即位したかどうかは定かではなく」とされています。
というのは、正史とされる「日本書紀」にその旨の記述が無いことが理由です。
しかし「正史」にはバッチリ真実のみが記されていると受け止めるのもいささか
お人よしに過ぎるのかもしれません。
なぜなら「正史」というものを時の権力者の「御用歴史」と見ることもできるからです。


その非常に分かりやすい事例が、昭和時代の「太平洋戦争」時における政府・軍部の
広報である、いわゆる「大本営発表」です。
明らかな負け戦であっても、国民に対しては「勝った勝った」と言い続けることで
事実を隠蔽しました。


えぇ、ですからヘソ曲がりな筆者なぞは、この正史「日本書紀」の記事にも、こうした
「大本営発表」が少なからず混じり込んでいると見ているわけです。
要するに、筆者は「(大友皇子の)即位はあった」派の見方をしているということです。


その立場から「日本書紀」を眺めると、もっと露骨な言い方ができるのかもしれません。
~先代(第38代)天智天皇の「息子」である大友皇子と、(「日本書記」には)
 天智天皇の「実弟」(とされている)である大海人皇子、すなわち甥VS叔父の
 直接決戦となった「壬申の乱」(672年)の勝者である大海人皇子(第40代・

 天武天皇)の一派によって成立したのが、この正史「日本書紀」である~


   淡海三船


それはともかく、見方によっては淡海御船による一括諡号から外れていたように
受け止められなくもない、いささか微妙な天皇がもう御一方おられます。
第42代・
文武天皇です。


~祖父である第40代・天武天皇が崩御(686年)。
 その後の皇位には草壁皇子が就くものと思われたが、その翌年に草壁皇子が
 薨御(689年)する。
 その男児である軽皇子はまだ幼くて、即位はおろか皇太子とすることもはばかられ、
 しかも草壁皇子の兄弟には適齢の親王が存命であった~


こうした状況下で、
~この時点では後継は正式には決まらなかったため、天武天皇の皇后が即位した~
これが第41代・持統天皇です。


そして、
~祖母・持統から譲位されて即位(第42代・文武天皇)の詔を宣した(697年)が、
 当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて太上天皇を称し後見役に
 ついた~


さらには、
~25歳の若さで崩御(707)。 あとに残された首皇子(のちの第45代・聖武天皇)は
 数えで7つと幼かったことから、天皇の生母(天智天皇皇女)が皇位を預かる形で
 第43代・
元明天皇が即位し、次にはそのまた娘が第44代・元正天皇となった~


では淡海三船はなぜ、この「文武天皇」だけについては諡号しなかったのか?
ひょっとしたら、三船の諡号作業はまだ「文武」の存命中のことだったのか?
崩御後に贈られる「諡号」を存命中に準備するなぞはメッチャ不敬で失礼窮まる所業に
なってしまいますが、ところが一安心。
なんと、「文武」の死去は三船の誕生よりも以前のことでした。


そうすると、「諡号外れ」にはなにかした他に大きな事情でもあったのだ、と色めき
立ったりもしてしまいます。
ところがギッチョン、話は少しばかり妙な方向へ進んでいくのです。
なんと、この文武天皇には妃・皇后を持った記録も無いそうなのです。
こうなると、文武天皇に対する「謎」もますます深くなって、これを追わないという
選択肢はありません。


そういうことから先に挙げた文武天皇の環境を眺めてみると、真っ先に気が付くことは、
この時期の天皇家には皇位継承させるべき男子が不足していたという厳然たる事実です。
つなぎの持統天皇(女帝)を立てるという緊急避難措置を経て、ようやく「文武天皇」を
誕生させていることがそれを如実に物語っています。


そういうことなら、当の文武自身もえっさえっさと「子作り」に励まなければならない
ことを充分に自覚していたはずです。
なにせ「万世一系」を国是?家訓?としているくらいのものですから、これは
問答無用です。
ところがその文武天皇に、妃・皇后もいないし三船による諡号もない、ときている
のですから、なんともスッキリしません。


 

  第39代・弘文天皇 / 第42代・文武天皇


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この文武天皇の皇后に関わる疑問について、Wikipediaの記事はこうなっています。
~時の社会通念上から考えれば、当初より後継者に内定していた段階で、将来の皇后と
 なるべき皇族出身の妃を持たないことは考えられず、何らかの原因で持つことが
 できなかったか、若しくは記録から漏れた(消した)とされる~


「漏れた」というのと「消した」というのでは、その意味合いはまったく異なるもので、
これが併記のような形にされているということは、「ブッチャケよう分からん」という
意味合いなのでしょう。
「ブッチャケよう分からん」のであれば、ヘソ曲がり的に「ではなんだろうか?」という
運びになるのは致し方ありません。


そこで首を突っ込んでいくと、こんな思いに至ったのです。
~当時の常識に則して眺めた場合、それは天皇家にとってかなり不名誉なことだった
 のではないか。 あるいはひょっとしたら、その不名誉の度合いが大きいことが

 影響して三船による諡号のリストからも外れたのではないか~


ただ、そのスキャンダルの具体的な内容について推理はできても、おそらく真相究明は
無理なことでしょうね。 
なぜなら、そうした真実を悟られないために、敢えて「記録から漏れた(消した)」に
違いないからです。


ですから、現代感覚を重視するなら、実はこんなことだって考えられなくはない
印象にもなります。
~精神(メンタル)的心的にせよ、あるいは肉体的にせよ、子を設けるための
 何かしらの問題を抱えていたのではないか~
現代風に言うなら「LGBTQ」とかの言葉が用いられるのかもしれません。


まあ、それはともかくとして、いずれにせよ第40代・天武天皇に始まり、この第42代・
文武天皇を経て、さらには第48代・称徳天皇に至って終わるいわゆる「天武系」天皇の
673年から770年に渡る約100年間は、皇位継承に関わる当事者たちにとっては無理の上に
無理を重ねた期間だったと言えそうな気がします。


その間の出来事を箇条書きに並べただけでも、なにせこんな按配ですものねえ。
〇697年/祖母・持統から孫・文武への皇位継承
〇707年/子・文武から母・元明への皇位継承
〇729年/反天武派・長屋王の暗殺(自決)/
〇729年/藤原光明子が第45代・聖武天皇の皇后に
〇752年/聖武天皇建立による大仏の開眼供養会
〇769年/称徳天皇から僧・道鏡への皇位禅譲計画(宇佐八幡宮神託事件)


そして、こうした「無理」を重ねた影の部分はついてはひた隠しにするか事実を
捻じ曲げてモノ申す他はなく、さらには自分たちの不都合・負い目・悪業などに
ついてはあくまでもシラを切り通して、当事者全員が「胸にしまった」ままこの世を
去ったということなのでしょう。


それにしても、この文武天皇における諡号や皇后についての疑問には、いささか微妙な
肌合いを感じている今日この頃の筆者です
どなたかこの辺のところをご存知の方がおられたら、是非ご教示をお願いしたいと
思うところです。


さて、この稿を書くに当たって筆者に起きた事件は、そのまま胸にしまっておこうか
とも思いましたが、この際ですからスッカリ白状しておきましょう。
それはパソコンに「もんむ」と入力したところ「文無」と変換されてしまったことです。
「文無」ではいささかトホホですから、どうかミナサマも十分にお気を付けくださいね。


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