ヤジ馬の日本史

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トンデモ編11/退却殿軍はウラ最前線

まっこと突然ですが、漢字「殿」の読み方を幾つご存知でしょうか?
ネット上のgoo辞書で確認してみると、こんな説明になっています。
〇音読み/デン・ テン 〇訓読み/との・ どの 
これらはどちらも一般的な読み方で、特段のビックリはありません。
ところが例外的な訓読みもあって、その場合は「しんがり」とされています。


ついでに「殿」の字そのものが持つ意味合いも押さえておくとこうなっています。
   1・大きな建物。 貴人の住まい。 →「殿堂」「宮殿」
2・貴人・君主の尊称。 また、相手に対する敬称。 →「殿下」「貴殿」
3・しんがり。 しり。 →「殿後」「殿軍」  [類]臀(デン)
      4・どの。 人の姓名の下につける敬称。


そうした意味合いからすれば、まあ佳字の仲間にあるのかなと思いきや、ところが
<3>では「しんがり/しり」と説明されています。
この事実は必然的に筆者の関心を誘います。
そこで、その「しり」に入っていくと・・・ズバリ、人体の下半身の後ろ面にある
その「お尻」のことで、漢字なら「尻/臀/後」となるとのことです。


こうなると筆者の興味はその3の説明に記された「殿後」「殿軍」へと移っていく
ことになります。
なぜなら、こんな大胆なことを言っていることになるからです。
~殿=尻~


そこで、少しばかりひつこいのですが、そこにある尻を意味する殿の字を使った
「殿後/殿軍」を追ってみることにしたのです。 すると、こんな説明です。
「殿後」(でんご) →軍隊のしんがり。 あとおさえ。 
「殿軍」(でんぐん)→しんがりの部隊。 大部隊の最後尾で敵襲に備える部隊。


双方の説明に「しんがり」という言葉がありますが、これは「しりがり(後駆)」が
変化したものとされているようです。
また、その「殿後」と「殿軍」は共に「軍事用語」だともされています。


~殿(しんがり)は、後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する部隊。
 後備え(あとぞなえ)、殿軍(でんぐん)ともいう~

ということなら、「最前線」で戦闘するのではなくて「最後尾を担当する」ということ
ですから、ラクでいいじゃないかと考えたいところです。


ところがどっこい、そうではなく、
~退却する軍列の最後尾にあって敵の追撃を防ぐこと~が使命とされているのです。
ということなら、否応なく敵に直面するわけですから「命懸け」であることは必至に
なります。
状況によっては、ひょっとしたら、通常戦闘の前線部隊より過酷な場面のあるのかも
しれません。
そこで、今回はそうした「殿軍」にまつわるお話に注目してみることにした次第です。


  織田信長 / 豊臣秀吉 / 徳川家康


さて、そうした話題に踏み込んでみると、それに関連する手柄話や面白エピソードは
それこそ山ほどあるようです。
しかしその全部を網羅することも出来ないので、そこで今回は、そうした中でも

とりわけ有名とされているお話を取り上げることにしました。
その理由はいたって単純明快で、「有名でないお話」は筆者が知らないからです。
悪しからず御免なさいよ。


さて、兵法における「殿」(しんがり)についての説明です。
~本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという、戦術的に劣勢な
 状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である~


本体の撤退を完遂させるために身を挺して戦うということのようです。
~そのため本隊から支援や援軍を受けることもできず、限られた戦力で敵の追撃を
 食い止めなければならない最も危険な任務とされ、古来より武芸・人格に優れた
 武将が務める大役とされてきた~


こうした「前説」を踏まえた上で、まずは「金ヶ崎の退き口/金ヶ崎崩れ」(1570年)
と呼ばれている出来事を見てみることにします。
ちなみに「退き口」とは戦国時代における撤退戦を意味する言葉です。


その「金ヶ崎」における撤退戦にはこんな経緯がありました。
織田信長が越前・朝倉義景を攻撃したところ、同盟関係にあった妹婿の
 小谷城(琵琶湖東岸)の浅井家の裏切りにあい、挟撃の危機に瀕した。
 そのため
木下藤吉郎(豊臣秀吉)と、信長の同盟軍の徳川家康が後衛となって、
 信長本隊が信長勢力地まで帰還するのを援護した~


それまで「心強い味方」だと信じ込んでいた者が、一瞬にして「手ごわい敵」に
豹変したばかりか、それらの武力によって直接的な「挟み撃ち」を喰らったのですから、
信長にとってはそれこそ文字通りの「絶体絶命」のピンチでした。
ここで命運が尽きたとしても、決して不思議ではない状況だったわけです。


ところが、~信長はこの挟撃の危機からなんとか逃げ延びた~
それは当然かもしれません。
もし逃げ延びることが出来ずにここで落命していたのであれば、この出来事を指す
歴史用語だって「金ヶ崎の退き口/金ヶ崎崩れ」とはされず、これとは違った表現に
なっていたでしょうからね。


つまり、「前説」にあった通りに、この際に「殿軍」を務めた木下藤吉郎も徳川家康も、
間違いなく「武芸・人格に優れた武将」だったことになります。
そしておそらくは、この両者の働きは大いなる評価を得たことでしょう。
なんとも見事に、総大将である信長の戦場脱出劇を成功させたからです。


普段の戦とはやるべきことがまったく違うのです。
普段の戦のなら、チャンスと見れば不深追いして敵を殲滅させることもOKです、
しかし「退き口」「殿軍」場合はまったくNGなのです。
その目的は「殿/大将」」の窮地脱出を成功させること、この一点にあるからで、
敵を殲滅させるなどの意識はハナからもちません。
ですから、仮に敵側に大きな隙があったとしても深追いをすることは決して無いという
ことです。


兵法における「殿」とはこんな説明になっています。
~本隊の後退行動の際に敵に本隊の背後を暴露せざるをえないという戦術的に劣勢な
 状況において、殿は敵の追撃を阻止し、本隊の後退を掩護することが目的である~
言葉を換えるなら「ウラ最前線」とも言えるのかもしれません。


 

    金ヶ崎の退き口 / 島津の退き口


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その「ウラ最前線」と聞いて、ついついイメージするのが、戦国時代に薩摩国が演じた
戦地脱出作戦、いわゆる
「島津の退き口」です。
「関ヶ原の戦い」(1600年)における西軍の薩摩国・島津義弘の部隊が演じた撤退戦を
このように呼んでいます。


その島津義弘は、当初は徳川方へ着くつもりでした。
しかし、義弘のその申し出を徳川方は素直には受けとらず、疑うようなそぶりを見せた
ようです。 その態度にすっかりヘソを曲げたのが島津義弘でした。
~そんなことなら、ワシは豊臣方に陣を置くわいッ~


実際そのように行動しましたが、実はハナから戦闘に加わる気持ちは持っていません
でした。 「高みの見物」と言ったところでしょうか。
ところが、豊臣方の敗北が決定的になると、事態を見切った島津義弘は戦場からの
撤退を決断するや、無謀にも激闘が続く最中にそれを実行に移したのです。
これが世にいう「島津の退き口」です。


~数万の敵に囲まれた島津隊が千人余りの兵で正面突破を図った戦いで、
 島津の誇りを守るため後方へ逃げることはしないという考えのもと行われた。
 この戦いで島津隊は「捨て奸(すてがまり)」という戦術を用い、足止め隊が

 座り込んで待ち伏せる「座禅陣」を形成して追手を食い止めた~


その「捨て奸」がまたチビリそうになるくらいの身震いものの戦術なのです。
死亡率ほぼほぼ100%と言っていいのかもしれません。 具体的には、
~本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊がその場に留まり、追ってくる敵軍と
 死ぬまで戦い、足止めする。
 そうしてその小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを
 繰り返すことで時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる、という戦法~


そして、その陣組みとして「座禅陣」がありました。
その説明です。
~退路に配置した銃を持つ兵士たちの命中率を上げるために、膝を立てて銃を
 構えるのではなく、重心を固定してあぐらをかいて座らせた~


つまりは、
~足止め隊はまさに「置き捨て」であり生還する可能性がほとんど無い、という
 壮絶な「トカゲの尻尾切り」戦法である~


太平洋戦争の折には、戦闘機を操縦士もろともに敵部隊へ突っ込むという
「神風特別攻撃隊」が誕生しましたが、その伝で言うのであれば、まさしく
「座禅特別防御隊」ほどの表現になるのかもしれません。


こう見てくると、同じ文字を使いながら「殿様」と「殿軍」は、その様には雲泥の
違いがあったことになりそうで、えぇ、ですから筆者などは、
~「殿様」にならなってやってもいいが、「殿軍」の方は丁重にご辞退したい~
こう考えているところです。 いやホント。



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