女性編32/時空香る斎宮跡を歩いた
ひょっこりのお誘いがあって、国史跡「斎宮跡」の見学旅行に参加してきました。
参加者数は20人チョイ弱で、行き先は筆者の生息地・愛知県のお隣である三重県、
さらに詳しくなら、多気郡明和町になるとのことです。
それはいいとしても、何ですか? そもそも、その「斎宮跡」って?
準備不足のままの参加でしたから、そこらへんは後日なってHPなどから再確認する
ハメになりました。 するとこんな案内です。(抜粋)
~昭和45年の団地造成の計画をきっかけに事前発掘調査が行われ、斎宮跡が
明和町の斎宮にあったことが裏づけられました。
その後、昭和48年から3ヵ年にわたり史跡の範囲確認調査が行われ、
東西約2.0キロメートル、南北約0.7キロメートルの137.1ヘクタールにおよぶ
広大な面積を占めていることが明らかになりました~
この地に「斎宮」が存在していたことが確認できたのは、団地造成計画が発端だった
とのことです。 そして、そこにはこのような説明も加わっていました。
~このことから、わが国の歴史・文化を解明する上で重要な文化遺産として、
昭和54年3月27日に国指定をされました~
こうした一連の歴史的な流れを地元ボランティアガイドさんから受けながら、
我ら御一行様は、このエリアを歩き廻ったわけです。
斎宮跡(三重県多気郡明和町)
~平城京や平安京は日本の「首都」であり、また「遠の朝廷」と呼ばれた太宰府は、
都から遠い九州を統治する「小政府」のようなものでしたが、一方、斎宮は
伊勢神宮の天照大神に仕える斎王のためだけの都でした~
これはHPの説明ですが、まさしく「神の世界」という趣を感じます。
そして、その構成などはこのような説明になっていました。
~斎王の在任中のみ構成される斎宮寮には13の司があり、120人以上の役人をはじめ、
斎王の世話をする女官、雑用係を会わせて500人を越える人々がいました。
これは、当時の諸国を治める国府よりも遙かに大きな規模でした~
かなり気合いが入った施設だったようです。
さらには、
~斎宮は、日本の古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の
御所(現在の斎宮跡)で、平安時代以降は斎王のことも指した~
ちなみに、「斎宮」は(さいぐう/さいくう/いつきのみや/いわいのみや)などの
呼び方があるようです。
しかし、こうなるとその「斎王」について知らないことには話が進みません。
そこで、煩雑さを避けながら、その説明を取り上げてみると、このように
なりました。
~ (斎王とは)天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕えるために選ばれた、
未婚の皇族女性のことである。
厳密には内親王の場合は「斎内親王」、女王の場合は「斎女王」といったが、
両者を総称して「斎王」と呼んでいる~
はあ、なるほどねぇ。
それはそれで構いませんが、でも今度は「内親王」って何さ?
「女王」(じょおう/にょおう)って何さ?
そこらへんは、こんな説明になっています。
~「内親王」とは親王宣下を受けた天皇の皇女のことで、
「女王」とは親王宣下を受けていない天皇の皇女、あるいは親王の王女のこと~
う~む、深入りすればするほど、ますます分からないことが増えてくる。
しかしまあ、ここまで来たからには、もう一歩だけ突っ込んでみることにするか。
~その親王宣下を受ける、受けないは、いったいなにが基準になっているの?~
すると、
~律令制の規定では、歴代天皇の直系男系卑属は、一世(天皇の子)は親王/内親王、
二世孫(天皇の孫)以下は王/女王の称号を名乗るよう規定されている。
本来はこの規定に依り、当人の称号は自動的に確定する~
そういうことなら「自動的に確定する」という説明と、「親王宣下を受ける/受けない」
という、この双方の説明の間には、なにかしら矛盾が感じられます。
こうした思いは筆者のみならず割合に多くの人も抱くようで、その辺りの補足説明も
ちゃんとなされていました。
~しかし実際には、平安時代前期にかけて、子女をたくさん儲けた天皇が相次いだ
ことにより、国家が逼迫したことを受けて、人為的に皇親の人数を抑制する仕組みが
取り入れられる。
すなわち、出生時は一世子女ではあっても王/女王であり、天皇の宣旨によって、
親王/内親王の称号を授けられるようになった、この手続きを親王宣下という~
「斎王」のイメージを把握するだけでも結構な情報量です。
しかし、もう一つの「斎宮」についてはまだイマイチの段階ですから、それにも
突っ込んでいくと、そこらへんのことは「斎宮歴史博物館」入場の折に手にした
パンフレットにもバッチリと案内されていました。
~斎宮とは、天皇が即位するたびにえらばれて伊勢神宮に仕えた
斎宮(いつきのひめみこ)の宮殿と、彼女に仕えた官人たちの役所である
斎宮寮を指す言葉です~
重なる部分もありそうですが、折角ですからその案内をもう少し追ってみると、
~斎王は、未婚の内親王や女王から占いで定められ、宮中の初斎院や野宮(ののみや)
などで足掛け三年間の潔斎(心身を清める)生活の後、斎宮へ旅立ちます~
この部分にも、初斎院や野宮など聞きなれない言葉が登場しています。
~皇女や女王が斎宮・斎院になるとき、潔斎のために、仮に移り住んだ(篭った)
宮城内(初斎院)と、宮城外(野宮)の宮殿~
こんな説明に続いて、そして、いよいよ都から斎宮への旅立ちです。
~一行数百人に及ぶ群行(ぐんこう)と呼ばれたこの壮麗な旅は、平安時代には
近江国の勢多・甲賀・垂水、さらに伊賀国の鈴鹿・一志の五か所の「頓宮」
(とんぐう)と呼ばれる仮説の宮で泊まりを重ね、五泊六日かけて伊勢に赴きます~
「頓宮」ってか?
そう言えば、プロ野球にも「頓宮」って名字の選手がいたなあ。
~頓宮裕真(とんぐう・ゆうま)/オリックス・バッファローズ(捕手)
昨季(2023年度)は自身初の規定打席到達を果たし、打率.307、16本塁打をマーク。
首位打者に加えてベストナインにも輝くなど、大きな飛躍を遂げた~
話が逸れましたが、「群行」の説明に登場する「頓宮」については、こんな説明に
なっていました。
~頓宮(とんぐう)は仮殿・御仮屋ともいわれる神の御旅所である~
言葉を換えるなら、こうとも言えるようです。
~旅行中の天皇の宿泊所をさしており、急場の一時的な皇居あるいは宮殿のこと~
斎王 / 群行(五泊六日の旅)
こうして日々を過ごすことになる「斎宮」ですが、そのすぐ東方が「外宮」であり、
そしてそのまたすぐ東方に「内宮」があって、伊勢神宮とは地理的にも「すぐご近所」
という位置関係になっています。
ところが、パンフレットにはこんな説明があったのです。
~七世紀後半に(第40代)天武天皇により定められたこの斎王制度は、
およそ660年間続き、斎宮は9~10世紀にかけて隆盛を極めた後、
14世紀に半ば、南北朝の動乱のうちに、その姿を消したのでした~
あっちゃー、斎王消滅ってか!
肝心要の朝廷そのものが南と北に分裂してしまったのですから、斎宮も斎王も無事では
済まなかったということらしい。
ですから、「斎宮」が「斎宮跡」になり、また、「斎王」の方も現在は存在していないとの
説明です。 まさに「諸行無常」の顛末ですねぇ。
しかし、ちょっと待て。
伊勢神宮には確か今でも「斎王」がいたはずで、最近もなにやらの神事を務められた
という記憶があるぞ。
どっこい、これがまったくの記憶違いで、実はこのことがボンヤリと頭に残っていた
ものだったのです。
~上皇様御夫妻の長女で元皇族の黒田清子(くろだ・さやこ)さんが、現在
伊勢神宮祭主に就任されている~
では、4世紀半ばに姿を消した「斎王」が、そのまま「祭主」に継承されたという
ことかしらん?
実はそうではないことは、筆者のような宗教オンチ症の人間でも気が付くところです。
なぜなら、旧来の「斎王」が「未婚の皇族女性」と説明されているのに対し、
現在の「祭主」は元皇族であり、しかも名字がバッチリあることからも分かる通りに
ばりばりの「既婚女性」だからです。
ええ、ですから、「斎宮跡」という表現があるのなら、現在の「祭主」も、
定義的には「斎王跡」ほどのイメージになるのかもしれませんねぇ。
ともあれ、我ら御一行様は、間違いなくその時空感覚に刺激を受けながら、
この「斎宮跡」を歩いたというわけです。
その意味では、現代人の一人ととしても貴重な体験ができたと言っていいのかも
しれません。
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