異国編17/識字その種蒔きと実り
筆者はとんと知らなかったことですが、英語には「3R's」(スリーアールズ)という
用語・概念があるそうです。 でもなんですかぁその「3R's」って?
ひょっとして、近年大きな関心を集めている「3R」、つまり、
/recycle(リサイクル)再資源化/reuse(リユース)再利用/reduce(リデュース)
削減する/のことを言っているのですか?
ところがどっこい、調べてみるとこんな説明です。
~reading(リーディング)/writing(ライティング)/arithmetic(アリスマティック)
の3語(読み/書き/算)を指し、それぞれにRがあるので「three R's」という語を
あてる~
はあ、なるほど、それで「3(three) R's」ってか。
なら、どうやら日本でいう「読み書きそろばん」に当たる用語のようだ。
そこで、その辺のことをちょっと深追いしてみたところ、こんな補足説明にも遭遇
したのです。
~「読み書き算」ともいうが、日本では幕末から明治にかけ、計算は主として
そろばんで行ったので、これを「読み書きそろばん」といってきた~
なるほど、幕末から明治にかけてということならもっともなお話だ。
現代ではその「そろばん」そのものも、ましてやその機能も使い方なぞはまったく
知らないという新種の日本民族も登場しているくらいのものだからなぁ。
まぁそれはいいとしても、すると今度は「内容教科/用具教科」なる用語の登場です。
自慢するわけではありませんが、この用語に遭遇したのは初めてのことでした。
ですから、面倒臭いのを押し殺して調べることにならざるを得ません。
そうしないと、永久に意味不明のままという、いたく悲しいお話になってしまいます
ものねぇ。
すると幸いなことに、ほどなくこんな説明に出くわしたのです。
~「内容教科」とは、社会科・理科などのように、知識内容の学習を主とする教科で、
「用具教科」とは、国語・算数などのように、他教科を学習するうえでの用具となる
言葉・文字・計算などを学ぶ教科~
つまり、この言葉・文字・計算などを学ぶ「用具教科」のことを、分かりやすく別の
言い方にしたものが、英語では「three R's」、日本語だと「読み書きそろばん」という
ことのようです。
さて、ここまではなんとか辿り着いたのですが、お次に登場したのが、
~読み書き能力の獲得は、文字の発明とともに人間の課題となった~
寺子屋(読み書きソロバン)
あっちゃー、お話が一足飛びに壮大になり、筆者には到底ついて行けないレベルに
なってしまいました。
それなのに、親切な説明は情け容赦なくさらに続いているのです。
~どの民族でも、口承ではなく、この能力の駆使による文化伝達の方式が優勢に
なったからだが、文字の知識は、まず特権階級の専有物であった~
ここまできて、「読み書き」そのものの歴史変遷を追うことは断念しました。
そこで今度は矛先を変えて、その文字が読み書きできる国民(15歳以上)の割合を指す
「識字率」という指標に移った次第です。
その「識字率」については、現代日本人ならまあ大方は、世界中ほぼほぼ100%の国
ばかりなのだろうと、そう考えるところでしょう。
ところがどっこい、極端な場合だとそれが25%以下という国も、世界の中にはある
ようなのです。
なんでそうなるのか? それでは何かにつけ不都合でしょうに。
こう思うのはなにも筆者ばかりでなく、国際社会としてもその通りのようです。
そのために、こうした国の識字率向上に努める国際機関も設立され、実際に活動も
続けています。
で、ここまでお話を進めてきて、今ひょいと思い出したことがありました。
かなり無責任でエエコロカゲンの展開ですが、そこでクイズをひとつ。
~(こうした国での)識字率向上の試みが思うように成果を上げていない
最大の障害とは、いったいどんなこと?~
意外に感じられますが、その答は予算額やスッタフ数などの技術的な課題ではないと
されているのです。 では、いったい何なのさ?
実は、その対象者たちがそもそも「文字を知りたい・覚えたい」という欲求そのものを
「持たない・持てない」ということなのだそうです。
いささかデフォルメした会話なら、こんな感じになるのでしょうか。
A国民 「でもさ、文字なんかを覚えて何になるの? 何か得することがあるの?」
スタッフ 「そりゃあ、毎日の生活が、この上なく便利で楽しくなるゾ。
だって、友達への手紙やその日の出来事を日記にも書けるし、署名だって
スラスラできるようになるのだからね」
A国民 「でも、今日の今日までそんなこと一切なし生活だったけど、なんの不便も
感じなかったよ。 それなのに、いまさらなんで字を?」
スタッフ 「う~む・・・それはそうかもしれんが、損にはならないのだから、
とにかく字を覚えようよ!」
確かに、その国の社会環境によっては文字の読み書きができなくても、不便なく
日常生活を送れてしまうという現実もあります。
ですから、読み書きができることが自分の世界を飛躍的に広げるということに思いが
及ばない、想像ができない、ということのようです。
世界でも識字率がトップクラスにある日本人からすると、いささか肩透かしの答のように
感じられますが、これも「日本の常識は世界の非常識」の一例なのかも知れません。
なにしろ、日本の識字率は世界各国と比べても、昔からかなりの「高水準」に
あったようですからねぇ。
試しに18世紀の各都市の識字率を比較してみると、こうなっています。
~パリでは10%未満、ロンドンが20%程度、それに対し江戸の場合は70%以上~
もっとも、このデータがバッチリ正しいのかどうかについては吟味する必要があるかも
しれませんが、それにしても少なくとも「字を知っている江戸の庶民」は決して
珍しい存在ではなかった、とは言えそうです。
明治維新の頃の状況を眺めるなら、産業や科学の面で、日本はイギリスやフランスに
比べて遥かに遅れを取っていたのは確かな事実ですが、ところがなぜか
この「識字率」の面では完全に逆転しているのです。
そうすると、逆にこんな「疑問」が涌いてしまいます。
琵琶法師「平家物語」 / 「太平記」
では、昔の日本人は、どうして読み書きに関心を持つことができ、またそれを
習得することができたのだろうか?
おそらく、その原因こそは「知的好奇心」だったのでは?
お話を遡るなら、要するに、そのまた先人達がその「知的好奇心」を刺激するだけの
下地を、すでに作っておいてくれたのではなかったのかということです。
つまり、筆者はこう言いたいワケです。
昔の日本人には、けっこう難しい言葉を先に耳から習得していたという歴史があります。
具体的な例なら、琵琶法師による「平家物語」や、太平記読み(僧)による「太平記」、
あるいは能楽の「謡」を、文字ではなく、生きた声の語りとして、繰り返し聞ける
環境があって、それらを通じて難しい言葉の音韻や意味をモノにしていったという
ことです。
長屋での祝言の際に、仲人役の大家が能の演目「高砂」の謡を披露する姿なども、
「けっこう難しい言葉を先に耳から習得していた」ことのいい実例なのかも
しれません。
そうした「言葉」の音韻と意味合いを先に耳で覚えてしまうのですから、それを
「文字」で書き表す作業はそれほど苦痛なことではありません。
それどころか、逆に案外楽しかったようにも思われます。
ですから、たとえばこの「子供と大家」のような会話が、日常のごく普通の光景として
津々浦々で見られたのではないでしょうか。
子供 「アタイ、大家さんの『たかさごや~』っての、もう覚えちゃった!」
大家 「今度長屋で挙げる祝言に向けての稽古じゃったのだが、聞こえていたのか」
子供 「たかさごや~、このうらぶねに~、ほをあげて~・・・」
大家 「真似をしなくてもよい。
それより、それを忘れないようにちゃんと字で書いておいたらどうだい」
子供に限らず、人間は「知的好奇心」をもっていますから、あとはこの大家さんのように、
ちょいとそこを刺激してやれば前へ進むことができるはずなのです。
その意味では、昔の日本は「高い識字率」を構築するだけの環境(準備)が常に
整っていた社会だったとも言えるのかもしれません。
さて、問題は先のA国民のように「文字の便利さ」が理解できないケースです。
そうした場合には、国際機関がいくら「識字率」の向上に努めても、その効果が
低いことは、前出のA国民とスタッフの間の会話でも分かる通りです。
要するに、「識字率」が低い諸国においては、この点を理解させることに最大の
エネルギーを費やし、しかも悪戦苦闘をしているということになります。
ただ、「読み書きできることは便利であり幸せなこと」としているのは、ひょっとしたら、
「識字率の高い国」の先入観?思い込み?ということだってあり得そうです。
なぜなら、「国民総幸福量」という指標では圧倒的に高い数字を誇るブータンですが、
これが国民識字率となると、どうやら50%程度らしく、要するに必ずしも
「識字率=幸福度」ということにはなっていないようだからです。
そうすると、音譜は読めないくせに音楽を結構ハッピーな気分で楽しんでいる
筆者なぞは、このブータン国民の微妙な心情の良き理解者、と言えるのかも
しれませんねぇ・・・ひょっとしたら。
このブログへのコメントは muragonにログインするか、
SNSアカウントを使用してください。