例外編13/寛政エリートの自己陶酔
日本史には「江戸時代の三代改革」とされる出来事があります。
~幕藩体制の動揺という事態に対応して、18世紀以降に質素・倹約を基本にして
財政再建・農村維持・商業資本掌握などに取り組んだ幕政の改革~
大雑把ならこのくらいの説明になりそうです。
しかし折角ですから今回多少の補足をまじえながら、その「江戸時代の三代改革」を
並べてみることにしたのですが、するとざっとこんな感じになりました。
〇享保の改革(1716-1745年) 主導:第八代将軍・徳川吉宗
内容:質素・倹約/武芸の奨励/新田開発/目安箱/
公事方御定書→裁判の基準となる法律
上げ米の制→大名に対し、石高1万石につき100石の米を献上させる代わりに
参勤交代の際の江戸在府期間を半年(従来は1年)とした
〇寛政の改革(1787~1793年) 主導:老中・松平定信
内容:質素・倹約/武芸の奨励/朱子学の奨励/寛政異学の禁
棄捐令(きえんれい)→旗本・御家人の財政救済のため従来負債を
一切消滅させた法令
囲米の制→凶作や天災によって作物がとれなくてもしばらくは民衆が飢えない
ようにするために米を備蓄する制度
旧里帰農令→江戸に出稼ぎに出てきていた百姓など正業を持たない者に
資金を与え、農村へ帰ることを奨励
〇天保の改革(1841~1843年) 主導:老中・水野忠邦
内容:衣食住への厳しい倹約令/出版・風俗の取締り/外国船打払令の緩和
株仲間の解散→幕府が流通を直接統制
人返し令→農村の窮民が江戸に流入するのを禁じ、江戸に流入した農民も
長年商売し妻子をもち江戸人別帳に記載された者以外は帰農させた
江戸時代の三大改革
ただこうした個々の政策を眺めてみても、筆者には「改革」というイメージがさほどに
湧いてきません。
いずれの場合も、享保の吉宗以来の「質素・倹約」を持ち出しているなど、
どちらかといえば従来路線を踏襲している感が拭えないからです。
しかしともかく「江戸時代の三代改革」ということですから、その用語に異議申し立てを
することはせず先へ進むことにし、その中でも「寛政の改革」のにちょっと注目して
みました。
まずは、それを主導した老中・松平定信(1758-1829年)についてです。
~田安宗武の子で、八代将軍・徳川吉宗の孫。
幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄の治察が病弱かつ凡庸だったため、
一時期は田安家の後継者、そしていずれは第十代将軍・徳川家治の後継と目されて
いたとされる~
先々代(八代)の将軍の孫であり、また自身も次代(十一代)の将軍候補だったという
ことですから、言葉にすればエリート、それも超々エリートだったということです。
そして、
~17歳の頃、陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子となることが決まった。
(定信の)兄の治察は自身にまだ子がなかったのでこれを望まなかったが、
当代将軍・家治の命により決定された~
さらには、
~第十一代将軍・徳川家斉の時代に老中首座に就き(1787年)、財政の整理、
風俗の匡正、文武の奨励、士気の鼓舞、倹約を実施して「寛政の改革」を実行し、
後に老中を免ぜ(1793年)られた。
著書130余で那覇でも「花月草紙」「宇下人言」は有名~
ちなみに、著書「宇下人言」(うげのひとこと)のタイトルは、自分の名「定信」の
2字を分けてつけたもの、と説明されています。
蛇足ながら、主義主張の異なった大先輩の幕臣・田沼意次(1718-1788年)についての
あることないこと悪口を生涯言い続けたのもこの定信でした。
そして、注目すべきは、定信が老中だった時期と、いわゆる「寛政の改革」の時期とが、
過不足なくピッタリ重なっている事実です。
つまり、「寛政の改革=松平定信」と見ても、それほど見当違いにはならないという
ことです。
そして、その政策で取り上げられているのが「朱子学の奨励」と「寛政異学の禁」です。
そこに「朱子学の奨励」という方針が含まれていることは、ある意味で当然です。
なぜなら、そもそも江戸幕府の創立者でもあった神君・家康(1543-1616年)が、
幕府の公式学問として採用したとのか「朱子学」だったという経緯があって、
何もこの時期の定信に限らず、幕府関係者ならだれもが間断なく「朱子学の奨励」に
努め続けていたはずだからです。
ではなんで、「寛政の改革」ではわざわざ「朱子学の奨励」なんてことを取り上げて
いるのか?
実は、それとセットになった表現が「寛政異学の禁」ということになりそうだからです。
その「寛政」とは、勿論ですが元号「寛政」の期間(1789-1801年)を指しています。
では、この定信がこの「寛政の改革」の折に禁た「異学」とは、いったい何のこと
でしょうか?
中途半端な知識の持ち主である筆者なぞは疑いを持つこともなく、実はハナから
このように受け止めていました。
~鎖国している最中に「異学」というからには、それは西洋などの学問、すなわち
蘭学・洋学の類を指しているに違いあるめぇ~
ところがギッチョン!
これが大間違いで、この場合の「異学」とはこのように説明されます。
~「寛政異学の禁」の異学という部分で、蘭学洋学などの学問も排斥しようとしたと
誤解されがちだが、この異学とは朱子学以外の儒学のことを指しており、
儒学の外にある蘭学などの儒学でもない学問を禁止などしていない~
松平定信 / 喜多川歌麿
ゲッ、そうだったのか。
要するに、儒学においては、朱子学以外(たとえば「陽明学」など)は認めないぞ、
ということのようですから、言葉を返せば結局は「朱子学の奨励」という表現にも
なるわけです。
同じ儒学の「陽明学」ですらそんな差別をされたということですが、
一方の蘭学・洋学については、
~定信は軍事関係の知識を中心に洋学に強い興味を持っていた~
たとえば、こんな経緯もあったと紹介されています。
~定信はオランダ語を学ぼうとしたものの、蘭書を読む域には達せなかったため、
元オランダ通詞や蘭方医を召し抱えた~
定信自身は、蘭学・洋学に対する旺盛な関心と向学心を抱いていたことになります。
また、定信にはこんな紹介もあります。
~儒教に傾倒するあまり、自粛的な一面があったといわれる~
この説明ではイマイチよく分かりませんが、性に対する考え方や発言が、
その分かりやすい例の一つかもしれません。
こんなことを言っているのです。
~房事(性行為)というものは、子孫を増やすためにするもので、欲望に耐え難いと
感じたことは一度もない~
ホンマかいな、と聖者でもない筆者などはつい思ってしまいますが、これを
わざわざ著書に記して、つまり声を大にして公表しているのですから、いささか
イヤミな奴との印象にもなります。
房事の好き嫌いなんぞは、本来人それぞれのはずですから、そこまで言わなければ
いいものを、それを敢えて「こんなもんは子孫作りの作業に過ぎない」と言い放つの
ですから、言い換えれば、「房事」に汗をかき、精を出す者を見下していることに
なります。
えぇ、お気づきではないのかもしれませんが、日頃からヒマさえあれば「房事」に
汗をかき、精を出すことが少なくないアナタなぞは、定信の目からすれは間違いなく
「下衆野郎」という評価になるのです。
ですから、アナタは、この定信の時代に生まれなかったことを感謝すべきなのかも
しれませんねぇ。
それはともかく、定信の改革政策はこうしたことにまで首を突っ込んでいます。
~ところが、幕府が支配する知的秩序の刷新を意図する松平定信の寛政の改革により、
世相批判の洒落本が処罰され、場当たり的な規制が再導入された~
出版や表現に対する一種の規制・検閲といったところでしょうか。
その影響もあって、
~武士、町人を問わず同好の士が交わり、楽しみを共有していた天明期(1781-1789年)
の狂歌壇は活動休止に追いこまれた~
ところが、いつの時代でも庶民はお上よりしたたかなものです。
~作家・山東京伝(1761-1816年)や絵師・喜多川歌麿(1753-1806年)らによって、
のちに規制に抵抗する表現技法となった「判じ絵」が導入された~
出版や表現に対するお上の規制・検閲をかいくぐる手法を開発?したということです
しかし、出版・表現業界が方向転換を模索し始めたことは、取りも直さず定信の意向に
対するリアクションということになりますから、ある意味で定信は満足官を
味わっていたのかもしれません。
もしそうだとしたら、こうした満足感ですら「自分だけは例外的な超エリート」と
する自己陶酔の上にある幻影に過ぎなかったと言えそうな気もしている、
筆者の今日この頃なのです。
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